創作2 「深 海 の 町 ~ もしくは秋桜庵」 

深 海 の 町   ~ もしくは秋桜庵 

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 秋桜 …コスモスと表すよりもやはりこの方がふさわしいと思う。おそらく外来

の花なのだろうけれど、初秋の風景の中でひときわ鮮やかな彩りを添えてくれる秋桜を、

彼はことのほか愛おしく思うのである。

 薄桃色の、矢車の形の花弁をながむるたびに、あたかも幼な子の頬でもなででいるかの

ような心地良さを感じる。控え目だけれど、それでも精一杯に八方に広がり、すこしもた

るみを見せまいとする姿は、かよわさの中にもどこか非常にしたたかな芯の強さを感じさ

せるのであった。

 この雪国の小さな山村でも秋桜は美しく咲いた。

 彼が赴任した小学校は一世紀も前に建てられたかのような木造で、窓ガラスは小さく、

真冬にはすき間から小雪が吹きこんだりもした。生徒も職員もほんの少数で、互いに気心

の知れるまでにさほど時間はかからなかった。

 初めは二十代後半の数年間を、山あいの小さな村で過ごさなければならないと思うと気

が重くなったりもした。けれども、二年目の夏を過ごした今は、半ばあきらめと、半ばこ

の土地の居心地の良さのために、そんな思いも薄らいでいたのだった。

 暗くつらい冬、(といっても、よく晴れた朝の朝の雪景色の美しさには涙がでるほどだ

だし、そんな時には軒下に下がるツララのような、透き通った純な気持ちになるのだが)

も含めて、春の新緑や、一年分の光の塊のような夏、そしてこれから迎えようとする紅葉

の季節などの自然の豊穰さの中で子どもらは素朴に育っていった。

 ─  今、幸せと言うべきなんだろうか・・・

 そんな疑問がガラスの曇りのように、いつも胸の中にわだかまっていた。食うに困るこ

とはなかろう、大過なくこの仕事をつづけていきさえすれば。世間の例えからすれば、も

う二、三年もすれば結婚の機会も訪れようし、そうなれば、素直に身を固めることだろう

と予想する。やがて教え子が連れ立って訪ねてくることもあるだろう。その時は、おおら

かな笑みを浮かべて彼らと語り合っているだろう。いったいどこに住んでいるのだろう。

それは知らないが、おそらくそんなありふれた教師の生活を送るだろうということは、ほ

んど確信と言えるほどにイメージとしてある。

 けれども自分は若い。若いからだと思うが、そんな予想が時に自分を妙にいらだたせる

のだった。

 壮年にさしかかった自分を想像してみる。自分がいて、妻がいて、子どもがいて、老い

た両親がいて、そしてこの人々がそれぞれ満ち足りた笑い声をたてるのだ。それは、なる

ほど、最良の場合のことだろうし、また、望ましい光景なのだろう。

 だが、しかし、────

 「おたくはいいねぇ、」などと人の言う素朴な祝詞を聞く時、自分は作り笑いを浮かべ

ながら、むなしく言葉をやり過ごすことだろう。これが幸福なのだろうか、とそのつどい

ぶかりながら・・・・

 ピンクの秋桜を一輪手折ってきた。それを首の長い、緑色の洋酒の空きビンに差した。

殺風景な男の部屋に、一つの核が生まれたようだ。少女趣味かな、と一人で苦笑したが、

それにしても心地よい色彩であった。

                   2

 今、表を歩くと所々で目に付くのが秋桜である。田畑のわきでひっそりと幾株か風に揺

れていたりする。時折、こっそりと人の花びらをまぶたの上にあててみて、日に透かして

みたりする。幼い頃には、それからそっと噛んでみたりしたものだ。その味は苦かったよ

うだけれども。

 家々の庭先でも、この可憐な花は目についた。四季折々、人々はたくさんの花を咲かせ

ているが、秋桜もまた多くの庭にあった。柿が赤く実をつけている下に、無造作に咲いて

いたりする。それらが秋の日差しの中で微風に揺れている様は、なんともいえず魅力的で

あった。

 もはや、夏の香りが一掃されてしまった日暮れに、空気の心地良さにつられて散歩に出

たことがあった。山々は黒々として影になり、その稜線の向こうから残照が空を染めあげ

ている。

 そこいらを一周りして、そろそろ住宅に帰ろうかと思い、金色の空を背にしてはみたが

田の間を続くアスファルトの道が妙に心をひきつける。夏の盛りには夕方涼しくなると、

よく素足になって歩いたものだ。平らな路面は街とは違い清潔なものだ。

 黄昏時は古来、逢魔が時といわれる時間帯、戸口に立っていた子どもや娘らが、ふと消

えてしまうのが、この時間帯であったという。このまま自分も神に召されるのか魔に食ら

われてしまうのか・・・なにやら、伝説めいた空間にいるような気がした。足取りは軽く

空気は甘かった。このまま一晩中でも歩けそうな気がしていた。

 小川があった。浅い流れのせせらぎが夕暮れの静けさの中で、ひときわ清らかに感じら

れた。

 道の傍らや田の畦には、イノコログサなどに混じって、やはり秋桜の姿も見られた。野

性のものだから、あちらに一本こちらに二本と思いついたように咲いている。烏か何かが

ずいぶんと暗くなった空を音もなく飛んでいった。木立は静まりかえっていた。人家も途

絶え、あたかも水底の風景のように、それぞれがひっそりとして身を保っていた。とりた

てて考えることもなく、またあてもなく彼は浮遊するカゲロウのように歩を進めていく。

 具象を離れ、自分はもはやこの世のものでありたいとは思わなかった。

 鎮守の森のような杉の木立が黒々と現れた。その梢あたりの暗さに、なぜかしら一瞬お

じけづいた。そして、ふと我にかえり、これまで歩いてきた距離を思ってあきれてしまっ

た。かれこれ二時間近くもふらついたことになる。

 その黒い木立を見て踵を返そうとした時、ほのかな明るさがふと視界をかすめた。再び

目をやると木々の、ほんの足元に、ポっとぼんぼりのような白い塊があった。かすかに残

った陽光を一身に吸収するかのように、そこだけが浮いて見えるのである。

 何だろう、と目を凝らすとその向こうがわには人家が一軒ひっそりと見えた。何とはな

しに心をひかれ少し近寄ってみてその明かりの正体が分かった。かなり広い庭一杯に、色

とりどりの秋桜が咲き乱れていたのである。

 よく見れば、丁寧に手入れされているとは言いがたく、無造作に種が蒔かれ、生えるに

まかせ、咲くにまかせ、という感じであった。だが、それでもこの家の主人が花々を慈し

んでいることは、雑草がほとんど見当たらないことでわかった。乱れ咲きではあるが、決

して乱雑ではないのである。垣根の前に立ち、しばらくの間その華麗な混沌に酔い痴れて

いた。様々な思いや激しい情念がめくるめく早さで胸中を走り抜けるが、それらは決して

明確な形にはならなかった。個々には確かに面倒な問題であったが、群れをなしてしまう

とあたかも霞か雲のようなもので、一種の麻薬的な魅力を持つようである。一群の想念は

あくまで定型を持たずに甘美な哀愁を漂わせたまま自分の目前で花開いているのだった。

 声がした。

 静寂がそれ自体に耐えきれなくなったかのように、やや離れた所から低い声を運んでき

た。老人のしわがれたバスであった。長年、煙草と酒に慣れ親しんできた声だとすぐ分か

った。

 貧弱な農家であった。コールタールがごてごてと塗られたトタン屋根には半ば腐った角

棒が横たわり、それはまた緑色の苔でおおわれている。木のさんの歪んだ窓からは電球の

ほの暗い明かりがもれてくる。声はしかし、その窓からではなかった。

 垣根にそって、その家の方にまわってみた。その途中にも、ずっと秋桜は咲き誇ってい

る。見事な混沌だ。そして、子どもの声がした。

 その秋桜のこちら側からのぞきこむと、老人は縁側に座り込み、しきりに手を動かして

いる。その周りからのぞき込むようにして子どもらは絶え間なく老人に問いかけている。

老人はそれに対し、ぶっきらぼうに、けれども、面倒がらずに答えていた。

「坊、縄、なえたか・・・ 」

 老人は一人の少年に声をかけた。

「ジイは一丁あがりだ。」

 そう言いながら、彼はできあがったワラジを見せ、枯れた声でカラカラと笑った。子ど

もは与えられたワラを持て余して、口をとがらせていた。

 ワラがうまくからまない、と別の一人が不平がましく言う。野球帽をかぶった一人が、

少しできた、と誇らしげに差し上げる。・・・・みんな、彼の教え子であった。三年生か

ら五年生にかけての腕白どもがそろって老人の作ったワラジに感心していた。

 やがて、そのうちの一人が、

 「あ、先生だ!」

 といって指をさした。みな、一斉にこちらを向き老人も顔をあげた。そして、

 「お、そろそろ夕飯時だ。みんな家にもどれや。母ちゃんが心配するぞい」

 と言って子どもらをせきたてた。子どもらは一握りのワラをつかんだまま、尻のほこり

を払い、先生さよなら、と元気よく言いながら自転車に飛び乗って帰っていった。

 老人もモンペのワラ屑を払いながら立ち上がったので、

 「どうも、子どもたちがお邪魔して・・・」

 ときまり悪そうに挨拶すると、老人は武骨な顔に笑みを浮かべて、

 「みんなワシの孫みてぇなもんだ。」

 その声が見かけによらず柔らかかったので彼は内心ほっとした。

 「すみません、勝手におじゃまして・・・それにしても見事な秋桜ですね・・・」

 彼は心からの感想を述べた。

 「ああ、娘がこれが好きでなぁ・・・毎年よく咲いてくれる。」

 娘がいるのか、と内心興味を感じたちょうどその時、家の中から声がした。

 「父さん、したくできたよ。」

 いかにも、肉親に対する時の調子で、なんの飾り気もない乾いた声だ。

 夕飯だな、と思い、では失礼します、と挨拶すると老人は言った。

 「先生は独りもんだと坊主どもが言っとったが・・・飯、食っていかんかね。」

 いや、それは・・・と辞退しようとする前に老人は家の中に向かって、

 「おおい、お客さんだぞぉ!」

 そう言いながら草履を脱いで縁側に上がってしまった。

 彼は、初対面で厚かましいと思ったが、正直なところ娘の顔を見てみたかった。思い切

って老人の後に続いた。

 娘というのは、しかし若くはなかった。もう三十代半ばというところか・・・。特に美

人というわけでもなかったが、しかし、どこかしら男の心をそそる雰囲気のある中肉中背

の女であった。

 無造作に髪を後ろで束ね、なんの身支度もしていなかったせいか、彼の顔をみた時、一

瞬気まずそうな表情をした。しかしすぐに気を取り直して座敷ともいえない、電球のぶら

さがった六畳の間に彼を案内し、酒の用意をしてくれた。

 「申し訳ありません。突然、お邪魔して・・・」

 「いえ・・・」

 女は言葉少なであった。どうぞ、といって酌をした後は自分から口を開こうとはしなか

った。しかし、不快そうに部屋を出てしまうようなこともなかった。

 その部屋は庭に面していた。外はもう闇であったが月が出ているのか、あるいは漏れた

灯火が照らしだすのか、例の秋桜が白いかたまりとなって盛り上がって見える。こんなあ

ずまやで、こうして花を見ながらの酒とは思ってもみなかったことである。こおろぎの声

も夜のとばりに響きはじめていた。戸を開けはなした部屋の、膝をくすぐる風はひんやり

として心地よかった。

 老人も無口であって、彼も口を開くきっかけがないまま、しばらく杯のやりとりを重ね

ただぼんやりと庭に目をやっていた。

 ほのかに、酔いがまわってきたかな、と自分でも感じた頃、例のしわがれた声が低く響

いた。

 「ゆき、お前も飲むか。」

 ふと気付くと、女は彼の方を見ていたのか、視線が会うと、慌てたように食卓に目を落

とした。

 「・・・お二人だけ、ですか・・・」

 彼は思い切って、小声で尋ねた。

 「ああ、女房はとっくに死んじまったし、子どもはこれだけだし・・・」

 皿を取りにいって戻ってきた「ゆき」という女を、酔眼で改めて眺めると、なんともい

えぬ艶を漂わせているのだった。どことなくふくよかな体の丸みは地味な洋服の下に成熟

しきった肉体を想像させ悩ましさを誘った。

 だが、その表情にはどこかしら、疲れとでもいうか、したたかさとでもいうのか、二十

歳代にはない陰が感じられた。若い異性の客に当然期待してもよい、「媚び」のようなも

のは微塵もなく物足りなくも思ったりした。

 要するに、愛想がなく、老父の客を義務的にもてなしているだけであった。

 しかし、それでも彼は不愉快には感じない。むしろ黙ってそこにいてくれるだけの方が

魅力的に感じられた。

 ─── もっと飾って、そしてもう少しだけ若かったら・・・

 男のだれもが、きっとそう感じたであろう。

 「どうしました?」

 突然、女がほほえみながら尋ねた。無意識に彼女の所作を眺めていたからだろう。彼は

赤面するのをごまかすようにテレ笑いして、「いや、べつに・・・」と答えた。

 老人は突然、わっはっはと笑ったかと思うと、

 「こいつ、もらってやってくれんかの。この歳になってもまだ片づかんで・・・」

 そういって、杯をグイッと飲み干した。

 真っ赤になった彼は話題をかえようとしてちょっとキザに、

 「あなたの秋桜、素晴らしいですね。まるで桃色の霞がたちこめているようで・・・

 あの咲いている中に飛び込んで行きたい気になります。」

 女はふいにうっとりした様子で

 「わたし、大好きだわ・・・」

 低い声でつぶやいて瞳をうるませて黙った。その横顔はまぎれもなく少女であった。

 ぽつりぽつりと老人の畑や山仕事など他愛ない世間話をしているうちに時間も過ぎ、や

がて老人はゴロリと横になりウトウトしはじめたので、彼は長居を詫びて帰りしなに

 「じいちゃん、約束したようにワラジ作り本当に教えてくださいよ。」

 そう声をかけると、

 「ああ・・・いつでもこらっしゃれ・・・」

 腕枕をし目をとじたまま、老人は答えた。

 女一人に見送られ彼は帰途についた。五十歩も歩いて振り返ると女の姿はなく、小さな

家を囲んで秋桜の霞が、月の光に白っぽく浮いて見えるだけであった。

 本当にワラジ作りを習いに、夕方老人の家に通った。まだ、日のある時刻には自転車に

乗ってでかけた。彼は無心に手を動かすことが好きだった。ある物が、次第に形になって

ゆくことが楽しかった。

 老人の手付きは、その無骨で節くれだった指からは想像できないほど繊細な動きをし、

特に細い紐を編んでいるときには惚れぼれとみとれてしまうのだった。

 時に老人はこんなものもできる、と言って正月用の注連飾りを作る。根本の太々とした

部分から、やがてワラ一本でなったような先端部分まで、一分の隙もなく均等に細くして

いき見事な注連縄となっていく。それは非常に完成度の高い製品であったが、しかしどこ

かにぬくもりを残している。民衆が歴史の中で作り上げてきた「技」の確かさに彼は改め

て打たれるのだった。

 彼がどんなにうまくワラジを作ったつもりでも老人のそれとはどこか違っている。かす

かな匂いとでもいうほどのものだが、人々はそれを風格の違いとでも言うのだろうか。

 出来具合について、ああだ、こうだ、と笑いあったり老人の昔話に耳を傾けたりして手

を動かしていれば、時間は心地よいそよ風のように過ぎていくのだった。

 三日目であったろうか。二人でワラ細工に夢中になっていると不意に女が縁側に現れた

ことがあった。

 「わたしに少しワラをちょうだいな。」

 これまでこんなことは無かったのだろう、老人は怪訝そうな顔で、何するんだ、と尋ね

た。

 「ワラ人形作るのよ。」

 女は、フフフと笑いながらワラをひとつかみ取って奥に消えた。

 彼があっけにとられていると、老人が話し出した。

 「あれも、哀れな娘でな・・・」

 一瞬の女の残り香が彼には魅惑的であった。

 「母親が若いうちにいなくなっちまって苦労させてしまった・・・高校もやめて、働き

 に出たんだ。」

死別であろうか,生き別れなのか・・・

 それにしても妙なことを女は言った。

 「ワラ人形なんて、物騒ですねぇ・・・」

 老人はすぐには答えずにワラをいじっていたが、彼が余計なことを言ったか、と後悔し

はじめた頃に、

 「あれだって、それほど器量が悪い方じゃないだろう、一度は結婚話もあったんだがつ

 ぶれてしまってな・・・おおかた、その男の人形でも作っていじめるんだべ・・・」

 そう言って、また黙ってしまった。

 彼が、老人の家に通った理由がもう一つあった。それは例の秋桜の群落である。無数の

花弁に囲まれて腰をおろしていると日常生活の煩わしさから少しの間開放されるのであっ

た。毎日の、きまりきった生活が彼には重苦しい。そうかといって、この飼犬のような生

活からとびだすことは今は考えられない。精神の開放だけでも・・・と、彼は表現するこ

とを好んだ。私的な時間は読書や油絵、ピアノの練習などにもっぱら費やされた。

 それは、しかし、ここでは孤独を増す行為でしかなかった。美しい風景に囲まれた平和

でのどかな山村でありながら、生活の中にポッカリと大きな空洞があいてしまっている。

なぜ、人々は「美」についてあれほど無頓着なのか。知り合いになった村の青年たちは、

「ここには何も無い、なにもない・・・」といいながら、いつも退屈そうな顔をしている

が、都会に出れば何でも満ちあふれていると信じているのだろうか。幸福もデパートに売

っているとでも考えているのだろうか。風景にまったく似合わないクルマを毎日磨きあげ

て、その爆音で、老人や子ども達を驚かして歩くくらいがせいぜいの生活。

 こんな思いが、いかに傲慢かは彼自身よくわかっている。自身の不満足からの、周囲へ

の八つ当たりでしかないということは・・・ しかし、やはり喜びを分かちあえる仲間の

ないことは大きな苦痛であった。モーツァルトの孤独な、この世のものと思われない凄絶

な美しさと、透明な哀しみを一人で味わうには彼はまだ若すぎたかもしれない。

 老人は作ったワラジを時々店におろして、半ばなりわいとしている。その傍らで秋桜に

囲まれ、無心に手を動かしている時、彼はまぎれもなく幸福であった。柔らかな陽光と、

乾いたワラの匂い、花びらからにじみでてくる、薄桃色の香りのような色彩にひたりなが

ら、幸福であることすら意識しないですむ時間がここにあった。

                   3

 三日月の出ている晩に訪れた時、老人は留守であった。老人会の集まりで一泊で温泉に

行ったと娘は言った。彼は、それではまた・・・と帰ろうとすると、女は、

 「少し、寄っていきません?」

 そう言って彼をみつめた。

 「・・・でも、迷惑では・・・?」

 彼は当惑した。いくら他意はないとしても女の一人住まいに上がり込むことははばから

れた。女は心なしか笑みを浮かべ、

 「何も遠慮することはないわよ」

 そういって彼の腕を引いた。

 「どうせ一人で食べてもおいしくないし、・・・口に合うかどうかはわからないけど」

 台所で女が夕食の準備をしている間、彼は一人で出された酒を飲んでいた。

 夕日が風景を染めていた。縁側から差し込む柔らかな光線が畳を半分赤くしている。庭

の秋桜もまた、花びらを夕日色に染めている。それもまた見事である。

 「いつからこうして植えてあるんですか・・・?」

 やっと腰を落ち着けた女に尋ねた。

 「・・・そうねぇ・・・母親が死んだ年からかしら・・・」

 女はポツリポツリとしか話さない。沈黙の時間の方が長かったが、それでいて気まずく

感じなかったのは、二人ともその沈黙を楽しんでいたからにほかならない。他人といて、

これほどくつろげたことは、この家に来るまでは何年もの間なかったことである。

 料理はあまり美味くはなかった。不味いということもないのだが、心を打つものがない

のである。それは多分彼女に、心をかたむけて料理を作る相手がなかったせいだろう。

 この家の事情や女の境遇など、根掘り葉掘り聞き出すつもりはなかった。女も決して自

分から語ろうとはしなかったし、二人ともそれでよかった。共通して言えることは、この

場、この時を共に過ごす者があるという心地よさだけではなかったろうか・・・。

 もはや、日は沈み、微風がやや冷たくなり電灯の明かりが暖かく感じられる。食事も済

み、茶をもらい、なにとなくポツポツはなしていると、庭で突然音がした。

 現れたのは三十代半ばの痩せぎすの男で、作業服を着て、右手には包みをさげている。

こちらも驚いたが、男の方はもっとびっくりした様子で、目を丸くしたまま座敷の様子を

見つめていた。

 女がやや慌てた様子で、

 「アラ、ご苦労様・・・」

 と立ち上がった時、男の表情には、やや険しさが漂い始めた。

 「新しいお札と、それからキノコが少し採れたから持ってきた・・・」

 不快さをあからさまに込めて男は言った。「いつもすみません」と女も機械的に礼を言

ったが、二人の関係は普通以上であることは彼にもはっきり分かった。

 長居しすぎたかな、と思い立ち上がりながら女に、

 「僕はそろそろ失礼します。ごちそうさまでした。」

 そういうと、

 「いやいや、どうぞ、ごゆっくりとお楽しみを。爺さんは留守だそうだし。」

 男は毒を含んだ声でそう言い捨てて、そそくさと闇の中に消えていった。

 さすがに彼も不愉快に思い女の方を見ると、彼女は気まずそうに目をそらしただけであ

った。

               4

 秋が日暮れを急ぐように日々の過ぎていくのは早かった。彼はまたモーツァルトの室内

楽を3枚、フォーレの歌曲集を2枚、そしてブラームスのシンフォニーと弦楽六重奏曲を

2枚買い、それらのレコードを毎晩くりかえし聴いて過ごした。一人で虫の音に包まれて

窓の外の闇を眺めていると、とりとめなくこれまでの二十数年間の思い出が浮かんでは消

えた。

 今は、のどかに日々を過ごしてはいるが、この平穏な心境は数年前とは格段に違ってい

た。物足りない思いは相変わらずだが、それでも、あの、阿修羅のようにギリギリと歯ぎ

しりしながら世の中すべてと対峙していた頃とは! 恋人にさえも、燃えるような恋情と

同程度に憎悪の念を抱きながら接していたあの頃! 今思えば、すべてのものを憎んでい

たように思う。割れたガラスのように険しい感情を彼はどうすることもできないでいた。

心 ─ というよりも、猛々しい情念はまた、哀れなほど自らをも傷つけ、その痛みがさ

らに彼を手負いの獣のように狂わせるのだった。

 「人」が最もだめだった。親族を拒み、友人を拒み、恋人すら、二言三言、言葉を交わ

すうちにいら立ちの原因となってしまう。そのくせ一方で、これらの人々を彼は求めてい

たのだ。砂漠の渇いた旅人のように。助けを待ち焦がれる海原の漂流者がように。

 だれもがそうであるように矛盾はさらに矛盾を呼び、彼は自分の心を持て余した。この

不統一は、この混沌はいったい何なのだろう! 彼は恐ろしくなった。できることならば

この重い頭と胴体を切り離してしまいたかった。

 「人」がだめなら「自然」だ。彼はおのずと自然を求めた。山々と語り木々と語り合い

スミレと慰めあえればそれでよいのだ。

 だが、山々のなんと遠いこと! 樹皮の、なんと硬いこと! スミレはあどけない少女

のように残忍であった。自然すら、荒ぶる彼の精神を容れてはくれなかった。ときおり彼

は岡に上がり空の蒼さを憎んだ。その深い虚無に絶望し涙を流したことも幾度かあった。

 けれども、今。花々はなんと優しいのだろう! 草原の風はなんと心地よいのだろう!

いつか自然は彼に対して近くなっていた。それは心の安らぎであった。だが一方でこう考

える。

 自分の青春も終わりに近づいたのだ、と・・・・

                5

 それは小春日和の、のどかな午後のこと。

 彼の先輩にあたる四十半ばの教師から、黒光りする校舎の廊下で声をかけられた。

 「今夜、一杯どうだね?」

 彼は、その顔に物言いたげな表情を敏感に読み取った。

 その晩、町で一件しかない焼き鳥屋で二人は待ち合わせた。よくない予感は的中した。

ある程度酔いの回った頃、先輩は申し訳なさそうにボソボソと言いだした。

 「実は管理職から言われたんだが・・・・・」

 意外であった。振り返ってみて、とりたてて仕事上のミスはないようだが・・・?

 「あんた、最近ある家に出入りしているだろう。」

 「はあ・・・、あの林の中のうちですか・・・?」

 「あそこに、娘がいるだろう。」

 彼は、おおよその見当がついた。

 「娘といっても、ずいぶん年上ですよ!」

 不快さをあからさまに込めて彼は言った。

 「まあまあ・・・ところが世間では、いい噂になっているというんだよ。」

 「・・・・・・・・・・・・」

 彼は何も言う気がなくなった。愚劣だ。あまりにも愚劣だ。彼女のことをそのような感

覚で思ったことはなかった。第一ゆっくり話したことも一度しかない。

 一度・・・? あの晩、突然現れて消えた男! あの男しかいない。そんな噂を広める

とすれば。

 「なぜ・・・・?」

 彼はうめいた。

 「いやネ、僕も君がおかしなことになっているとは思わんが、とにかく注意だけはした

方がいいな。なにしろ狭い世間だからね。みんな退屈しているんだよ。なにかきっかけさ

えあれば、話を百倍にしておもしろがるのが世の常だ。いいつかって来たことはそれだけ

だ。サ、飲もう! たまに憂さ晴らししようぜ。」

 実直な先輩になぐさめられ、その夜は溜め息だけですんたが、翌朝は無性に腹が立って

きた。あのタバコ屋のばあさんも、あそこの本屋のおやじも、誰も彼もあんな噂をして自

分を見ていたのかと思うとあまりにも情け無かった。そうかといって、一軒々々釈明して

回るわけにもいかないし、泣き寝入りするしかないのだろうか。

 むしゃくしゃするので、その晩は一件しかないスナックの薄暗いカウンターの隅でボト

ルを抱えるようにしてオンザロックをあおっていた。あまりにピッチが早いので心配にな

ったのか、似合わぬチョビ髭をはやしたマスターが、

 「ちょっとセンセイ、そんな飲み方して大丈夫・・・?」

 狭い店内にその声が行き渡ったと思ったら、一瞬静まり返った。彼は、またか、と思っ

た。「先生」という言葉の響きは、いつも独特な沈黙を誘う。そればかりか、気まずさと

時には敵意さえも感じられることがある。そのたびに身のすくむ思いがするのであった。

 「あそこの女にふられたんじゃないのかァ。」

 突然、四・五人の若いグループの中から声が上がり、続いて哄笑が沸き起こった。それ

は明らかに彼へのあてつけであった。

 彼はついに激情を爆発させた。いすを蹴って立ち上がるとグループの方に歩み寄った。

 「何が言いたいんだ! はっきり言ってみろ!」

 強い口調で言った。若い連中は一瞬顔色を変え、まじまじと彼の顔をみつめたが、やが

て作業服を着た一人がゆっくりと立ち上がって低い声で言った。

 「おもしろいじゃねえか・・・ 表にでるか。」

 他の二・三人も立ち上がりかけた時、マスターが中に割ってはいった。

 「まずいよ、先生! みんなも落ち着け。」

 そして、彼の腕をつかんでカウンターまで引き戻そうとした。わかったよ、と吐きすて

てその腕を振り払った時、右手がテーブルのグラスを飛ばし、大きな音を立てて砕け散っ

た。店内がまたハッとして沈黙した。彼はいたたまれなくなって店を出た。

 その翌日から、彼の立場はさらに悪くなった。小学校の教師がスナックで酔って大暴れ

した、という噂になったのである。彼はしばらくの間、校外では謹慎するよう、校長から

強く言い渡された。

                   6

 二日後の夜、天井をにらみつけて歯ぎしりしているところに、例の先輩教師が訪ねてき

た。

 「また、つまらんことになってしまったな・・・」

 彼は、はぁ、と言ったきり言葉が出なかった。

 「まあ、しばらく我慢するしかないだろう・・・・それはそうと、この機会にあの家の

 事をちょっと話しておきたいと思ってるんだが・・・・」

 不意の改まった調子に少々驚いた。彼はビールをついだ。

 「なんであそこの家と君の事がこんなに注目されたのか、不思議じゃないかね・・?」

 彼は、うなづいた。

 「本当は言うつもりはなかったんだがな、あのじいさん、悪い癖があってな。実はコレ

 なんだよ・・・」

 そういって、右手の小指を立てて見せた。

 「・・・オンナ、ですか・・・・?」

 先輩はうなづいた。あまりにも意外であった。考えてもみなかったことだ。

 「今は年取ったせいか話はあまり聞かないが、まあ、若い頃はよく遊んだようだ。商売

 女だけじゃなく、あたりの人妻や娘まで節操なく手をつけてはもめごとをおこしてな。

 昔はだいぶ田畑もあったそうだがそんなこんなでみんな売り払ったらしい・・・。近く

 のほんの小娘を手込めにしたりして、かなり憎まれてきたオヤジなんだ。まあ家族の苦

 労も並大抵じゃなかったようだ。特に奥さんはなア・・・

  奥さんの亡くなった訳は知ってるかね・・・?」

 彼はかぶりを振った。

 「そうか・・・もう二十年も前の話だが、あの親父がよりによってタチの悪い女に引っ

 かかってヤクザに脅かされてなぁ。残り少ない田んぼをみんな売り払うハメになったん

 だよ。これまで何度も泣かされてきた奥さんだが、ヤクザに踏み込まれて娘を取られそ

 うになる、なんてことは初めてだった。その心労で神経を病むようになって寝込んでし

 まったんだ・・・・・」

 そして、二、三か月床についていたが、ある秋の夕暮れ、ふと物に取り隠されるように

いなくなったのだという。娘は学校から帰ってみると、布団はそのままで母親はいない。

不安になり近所に聞いてまわったが誰も知らなかった。もしや、と思い裏の林に入ってみ

た。

 「そして、首を吊って枝にぶらさがっている母親をみつけたんだ。親父はその晩も飲み

 に出ていて夜明けまで帰らなかったそうだ・・・・」

 父親もさすがに目が覚めたのか、その後しばらくは日雇いなどして真面目に働き、生活

が落ち着いてきたという。娘は気立てもよいし周りから可愛がられたのだが、家の事情が

やはり彼女に陰を落とすのか、いつも控え目な態度であったという。その後、二人はひっ

そりと隠れるようにして暮らしてきたのである。

 しかし、時々変な噂が立つことがあった。どこそこの家で風呂場がのぞかれた、といっ

てはあの親父だろうとささやかれ、物干しの下着が盗まれたといっては駐在が事情を聞き

に来たりする。しかもあながち根拠のない話ではないらしく、そんなことが最近まで度々

あり、そのつど娘は一人で泣いているとのことであった。

 「子ども相手に遊んでいる姿をみていると、とてもそんな人にはみえないけど・・・」

 「まあ、放蕩つんだだけあって豪放なところもあるからね、子どもたちは面白がって遊

 びによるんだが・・・ま、悪人とは思わないが、しかし親たちはあまり喜んでいないこ

 とも事実なんだよ。」

 「・・・・・・・・・・・・」

 「それはそうと、あの娘、ある男との噂があるみたいなんだが。新興宗教にかぶれて、

 盛んに村中まわっては変なお札を置いていくという話だ。ま、本当かどうかは知らんが

 ねぇ・・・」

 そうだ、あの男である。そいつが自分の事を誤解して、憂さ晴らしにあれこれ言いふら

して歩いたに相違なかった。

                   7

 あの秋桜の群落はどうなったろうか・・・・・

 彼は一週間ほど家に閉じこもっているうちに、そのことが妙に気になりだした。

 十月も下旬に入り、もはや盛りも過ぎた頃か。どこの田も刈り取られ、山々も赤くなり

始めていた。つい先頃まで暑い暑いと言っていたのがうそのようだ。冬の支度はすでに始

まっているのである。

 今回の下らない事件は彼の心に妙な結果をもたらした。彼はしきりにあの家の秋桜が気

になりだした。そして、その花の向こうに浮かぶ女の姿が・・・本当は彼女のことが気に

なるのだということを、ついには認めざるを得なかったのである。

 そして、それを認めたとたん、彼女にむしょうに会いたくなった。あの無造作に結んだ

髪の厚みや、どこか諦めを漂わせた弱々しい微笑がむやみと懐かしく思われるのである。

 それから二三日後のある日の夕方、彼はついにあの家に向かった。下らぬ噂に遠慮して

謹慎などしていることがあまりにも卑屈に思われた。秋桜が見たければ見に行けばいい。

女と話したいなら会いに行けばよいのである。

 すっかり刈り取られた田の間の道をしばらく行くとあの家が見えてきた。けれど、あと

三十歩ほどで玄関、という所まで来て彼の足取りは重くなった。あの親父の声が聞こえて

きたのである。しかも、正常な声ではない。ガラガラの怒鳴り声なのだ。

 彼は相変わらず見事な乱舞を見せる秋桜の群落の脇にそっと隠れるように立って、縁側

辺りでの騒ぎに耳を傾けた。

 「そらほど、おらが憎いか!・・・・」

割れ鐘の様な声が響く。そして、ドタドタと縁側の板を踏み締める音。その間に、とぎれ

がちに漏れてくる娘のあえぎ声、うめき声。

 「にっくかったら、憎らしいといってみろ! 女たらしだろうが遊び人だろうが、親は

 親だぞ! それを、殺してぇほど憎いだか!・・・」

 「憎いわよ!」

 女の金切り声が響いた。

 「何が親さ! 夫らしいこと、何一つ母さんにしてやらずにさ、父親らしいこと、何一

 つ、してくれないくせにサァ!・・・」

 「なにを! このアマ!・・・・」

 その時、柱の陰から二人の姿が見えた。親父が娘の髪をひっつかんで縁側に押し倒した

ところだった。

 「よくも親に対して、そんただこと言えたな、罰当たりが! さあ、はっきり言ってみ

 ろ! このワラ人形は、オラのことだと! 」

 「ああ、そうだよ、そらぁ、あたしが突き刺したクギさ! 父さんなんざぁ、とっとと

 死にゃあいいと思ってさ、母さんが首吊った木に打ちつけたんだ! 」

 おもいっきり毒を含んだ、凄まじい声で女がわめいた。親父は歯ぎしりをしたか思うと

「きさまぁ!・・・」とうめいて娘の頬を打った。まったく手加減しない、憎しみのこも

った平手だった。

 「てめえの母親だって、もとは流れもんの酌婦だ。さんざん男と遊んだ女だ。それを俺

 が貰ってやったんだ。親子して人をコケにしやがって! だいたい、あのヒョウロクダ

 マみてえな男はなんだ! だれも相手にしねえ訳のわからねえ札なんぞ有り難がりやが

 って! 乳くり合いながら二人してこの俺を呪い殺そうとでもいうのか! 」

 「あたしがどうしようと勝手だろう! あのひとは父さんになんか、関係ないんだ!」

 女は父親の手を振りほどくと、その顔面を両手で叩きはじめた。父親は娘を蹴り倒し、

再び押さえつけると、バシバシと殴りつける。女は手でそれをよけながらわめいた。

 「母さんが・・・昔、どんな商売していようと・・・あたしには、いつもいい母さんだ

 ったよ!・・・いつも・・・あったかい・・・母さんが、可愛そうだったよう!・・」

 やがて声は涙をふくみ、父親はますます狂ったように娘を打ちつづけた。女は鼻血を出

し父親は顔を引っ掻かれてやはり血をにじませている。その赤ら顔から汗が落ち、鼻水が

垂れかかっても、執拗に父親は「おのれ! 黙れ! 」と言いながら娘を叩き続けるのだ

った。

 ついには二人とも無言になり、うなり声だけになって、獣同士の争いとなっていった。

 彼はついにいたたまれなくなり、その修羅場に背を向けた。止めに入ろうなどとはまっ

たく考えなかった。他人が、軽々しく触れることのできぬ何かが、彼をその場から足早に

遠ざけたのであった。

                   8

 それから二日ほど、あの凄惨な親子喧嘩の様子を思い浮かべたり、例の中傷事件の馬鹿

らしさを苦々しく思いだしながら、彼は悶々とした夜を過ごした。眠り薬がわりのウイス

キーをあおるように飲んでも中々寝つかれない。

 この事件を通して彼は思った。「世間」とは、なんと愚劣なのだろうか。かつて大人は

「世間は恐い」と言った。だが恐ろしいとは思わない、あまりにも馬鹿げているだけだ、

と。我ながら傲慢にも思えたが、しかし、乞食でも泥棒でも何でも、命をつなごうと思え

ばできる世の中だ。いざとなれば・・と、彼はそこまで勇ましいことを呟きながらウトウ

トとしはじめるのである。

 けれども、そんな思いよりも彼の心を支配するのは、例の獣じみたあの親子喧嘩であっ

た。酔いが回って、意識が朦朧としはじめると決まってあの情景がよみがえる。まるで秋

桜畑の中で二人がスローモーションで格闘しているようだ。いや、格闘ではない。むしろ

楽しく戯れているかのように見えてくる。そして女の乱れたスカートの裾からのぞく太も

もの肌の白さや、熱く喘ぐ息の音・・・それらが妙になまめかしく彼の脳裏に去来するの

であった。

 部屋にはガブリエル=フォーレの合唱曲が流れている。宗教曲だというのになんと官能

的であろうか。その旋律の柔らかさは、たとえれば女性のほのかな肌のぬくみのようなも

の。フォーレという一人の男がこの音楽を生んだのであれば、これは一種の猥褻にちがい

ない・・・・あれや、これやと考えているうちに、やがて彼は眠りに落ちていくのであっ

た。

                   9

 電話があったのは、それから二日目の晩だった。彼が風呂から上がってビールでも飲も

うかと思った途端、ベルが鳴った。あの家の女からであった。

 いくぶん緊張した声で、「あたしです・・・」という声を聞いた時、彼はずっとこの電

話を待っていたような気がした。

 「何でしょう・・・?」

 「明日の晩いらっしゃいませんか。お父さん旅行に出てるし、夕飯でも、と思って。」

 「・・・でも、迷惑じゃありませんか・・・?」

 「いいんですよ、ご無理なさらなくても・・・」

 「・・・都合がついたらお邪魔します。・・・」

 女はそのまま、電話を切った。ああは言ったが、彼は二度とあの家には行かないつもり

だった。

 女は心づくしの手料理を用意していた。酒も上等のブランデーである。

 彼が、迷った末、この家の玄関で声を掛けた時、エプロンをしたまま、彼女は迎えた。

 「実は、来ないつもりだったけど・・・」

 「・・・いいのよ、どうでも。とにかく上がってちょうだい。たくさん食べていってく

 ださいね。」

 本当に来るつもりはなかったのだが、今日の夕焼けを見ていたら、考えが変わった。何

もびくつく必要はない。やましいところは何一つないのに、なぜ人目をはばかることがあ

ろうか。そんな反発心もあって、あえてやって来たといっても良かった。

 女は電灯を消し、洋風のキャンドルを灯した。やはり洋風の肉料理やサラダ、フルーツ

など、この前来た時に比べて数段ぜいたくな大小の皿が白いクロスをかけられたちゃぶ台

に並べてあった。よくみると、小さな苺ケーキもあった。

 「・・・もしかして、誕生日・・・? 」

 女は少しうなづくと、うつむいて言った。

 「いつもは一人きりで、心の中で自分をお祝いしてきたのよ。あたしの年なんかどうで

 もいいんだけど、母さんが死んでから、なんだか自分だけの命じゃないような気がして

 ね・・・粗末にしてはいけないな、って・・・」

 「・・・・・」

 「無理やり、呼びつけてごめんなさいね。よそう、って思ったんだけど、考えれば考え

 るほど、この年になって一人きりの誕生祝いなんて、みじめに思えてきてね。・・・

  もう三十も半ばになったというのに・・・

  あなたなら、もしかしたら来てくださるかと、つい甘えてしまったの・・・」

 女は正座した膝の間に両手をはさんで、まるで叱られている子どものようにうつむいて

しまった。その姿が妙に哀れに思えてきて、彼はつとめて明るく言った。

 「僕は僕で、来たくて来たんだからそんなに気をつかわないでください。さ、乾杯しま

 しょう!」

 ブランデーを互いにつぎあいながら、晩餐は話がはずんだ。特に幼い頃の思い出話は、

それぞれに甘酸っぱい郷愁を誘い二人とも一緒にその時代をすごしてきたかのような錯覚

すら覚えるのであった。

 深まる秋の、思いがけない程冷たい風が部屋に吹き込むこともあったが、心地よい酔い

のまわった二人にとっては、涼しいそよ風ほどにしか感じられなかった。

 彼は、ふと思いついて言った

 「何もプレゼント、用意してこれなかった・・・」

 「ううん、・・・来て下さっただけで充分よ。」

 頬を上気させて、潤んだ目で女は答える。残り少ないキャンドルの光の中で、その瞳は

魅惑的であった。

 「おめでとう! 」

 彼は心底から祝福した。女は微かに微笑しながら、ありがとう、と小声で答えた。その

時、彼女の頬を伝う一筋の涙を、彼は見逃さなかった。

 そして、次の瞬間、女は彼の腕の中に崩れ落ちていた。

               10

 お互いを味わい尽くして、二人はくたびれた。

 彼は女の髪の匂いを深く吸い込んで、ガラス越しに秋桜を見つめていた。彼女の豊かな

肉体からは全身の力がすべて抜けて、彼にぐんなりと体重の半ばを預けて、横たわってい

た。眠っているのか、思いに耽っているのかはわからない。その閉じたまぶたを唇でそっ

となでると、女は彼の脇腹をくすぐるようにつねった。彼は微笑しながら背中から腰、そ

して尻へと、ゆっくりとさすり、再びそのしっとりとした肌ざわりを味わった。けれども

一方で、三日月の冷やかな光にほのかに浮かびあがる彼女の体の曲線を眺めながら、彼は

軽い苛立ちを感じた。噂を打ち消そうとして、噂どおりになってしまったことの悔しさ。

それは、ともすると、女への淡い嫌悪ともなってしまう。彼女の熱い息や、あまりにも濃

く、むせかえるような女体の匂いを味わうほどに、その快感と比例するように嫌悪感も増

してくるようであった。

 その苛立ちは、しかし、逆に彼に激しい愛撫の行為を誘った。彼は、クソ、と思うと同

時に女の乳房をちぎる程に揉み、尻を噛み、息の止まるほど激しい口づけをし、背骨の折

れるほどに抱き締めた。

 女は初めとは全く違う男の動きに、痛い、いたい、と半ば恐れながらも、決して拒みも

せず逃げようともしなかった。かといって、男に任せきりでもなく、まるで挑み返すよう

に激しい行為で応えた。全身に爪を立て、膝頭で突き、おもいっきりつねり、体中に噛み

ついてきた。

 二人の肉体は闘っている者のように躍動していた。獣のような絡み合い・・・それは、

いつか夢で見た、この父娘のいさかいのシーンそのものであった。

 「・・・痛いじゃないか! 」

 「あたし、男という男が憎いの! 」

 「僕だって、あんたが憎いんだ! 」

 「あたしの方がもっと憎んでるわ、もっといじめてやる! 」

 「黙れ! 」

 彼は唇で、女の口をふさいだ。女はうめいた。喜びに満ちたうめきだった。

 虫の音も、いつしか止んでいた。月光はまだしばらくの間、二人の熱い肌をほのかに照

らし続けていた。

              11

 「どこかに行きたいな・・・・」

 疲れはてて、女が天井を眺めながらつぶやいた。

 「・・・どこへ・・・? 」

 しかし、彼女は黙ったままだ。

 「・・・そう言われると、僕もどこかへ行ってしまいたい・・・」

 「そう・・・・  ここはまるで海の底だわ。」

 「海底だって・・・?」

 「もうすぐ冬ね・・・じきに、みぞれが落ちてくるわ。毎日まいにち、鉛色の空から冷

 たい雨が降りつづくわのよ。ただでさえうらぶれたこの町が、いっそう陰気になってこ

 こには不幸がオリのようにたまってくるの・・・・ 光が薄いのよ、届かないのよ、あ

 たしの所まで。あたしは、一匹の醜い深海魚・・・・」

 女は乱れたシーツに顔を埋めた。

 「・・・魅力的な深海魚だけどね・・・」

 彼は、また女のふくよかな乳房に手を載せながら言った。

 「いいのよ、気休めは。ああ、このまま夜だといいなぁ・・・朝の光が私は恐いの。こ

 のまま老いてゆく自分を毎朝見るのがたまらないの・・・」

 「この町だって、春がくるじゃないか。」

 「春や夏に、私は冬眠するのよ。あたしの季節じゃないわ、光があまりに強すぎて。」

 女の言う意味はよく分かった。彼は何も言葉が続かなかった。

 「・・・でもね、この深海魚も奇跡のように降りてくる釣り糸を、天上からの救いの糸

 のように待ち望んでいたのかもしれないわ・・・強引に明るい世界に引き上げてくれる

 甘いエサの匂いをね・・・でも、それは年を取るごとに、本当に奇跡としか思えなくな

 ってきた。同時に、自分で海面まで泳ぐ力も、意欲も無くなってしまったわ。そう考え

 ると、本当に悲しいの・・・・・」

 女の声は次第に悲哀を帯びていく。

 「・・・僕だって同じことさ。だんだん深みに沈んでいくうちに帰れなくなってしまっ

 た。」

 「古い詩の一節じゃないけど、ほんとに山の向こうに行けば何かいいことがあるような

 気がする・・・・」

 「幻想さ。」

 「そうかしら・・・・?」

 「向こうの人間も、こっちに来ればいい事あるっ、て思ってるんだ。」

 女は、フッと軽く笑った。ちょっと体を動かしたとき、彼女の尻が彼の腰をこすった。

彼の欲情は再び高まった。彼は手を女の股間にうつした。彼女は、優しく拒んでその手を

握りしめた。

 「あたしはこのままマリンスノーに埋もれてしまうの・・・?」

 「そんなことあるもんか。少なくともあなたにはこれだけの秋桜があるじゃないか。」

 「秋桜か・・・、ひ弱なようだけどとっても強い花だわ。どんな雨も風も、しなやかに

 受け流してしまうもの。でも、これはあたしの花じゃないの、母の花なのよ・・・・」

 彼は女の肩を引き寄せた。ひいやりと冷えた肌が、妙に物悲しく感じられた。

 「あたしの夢は、見渡す限り秋桜ばかりの土地で暮らすことなの。一面ピンク色の霞の

 ようになるでしょうねぇ・・・ そしたら、またお母さんも戻って来るような気がする

 の。」

 「そんな所があったら、行ってみたいね。」

 「ほんとう・・・? うれしい・・・ 一緒に行けるかしら・・・」

 「ええ、いいとも。 でも、お父さんはどうする・・・?」

 「ふふ・・・その時はもう、地面の底でウジにたかられているわ。」

 「ずいぶん、ひどいな・・・」

 「やはり、父が憎いの!・・」

  そして女は一瞬、躊躇してから言った

 「ねえ、あたしの母がどうして死んだか知ってます? 」

 「・・・ちょっと、耳にしたことがあるけど・・・」

 「どうせ、世間中の物笑いの種になっているからね・・・」

 「そんなこと・・・」

 「いいの、分かっているわ。もう子どもじゃないもの・・・

  でも、だれも知らないことが一つあるのよ。」

 女は、意味ありげに彼の目を見つめた。彼はとまどった。何を言い出すのだろう。何か

秘密があるのだろうか。もしそうなら、それを聞いてしまっていいのだろうか。その秘密

を自分は背負いきれるのだろうか。

 「・・・父の不始末で、やくざに脅された頃、あたし、同級生の男の子からいわれたの

よ。『メカケの子』って。高校生だったから、何のことか理解できなくて家に帰ってから

母に聞いたのよ、どうしてあんなこといわれるのか、って・・・。

 母は、しばらく枕を見つめていたわ。でも、しばらくして、キッと顔を上げてあたしの

目をみすえた。そして、こう言った。『しっかり聞きなさい、お前が聞いてはならないこ

とをこの私に尋ねたのだから、おまえは聞かなくてはならないのよ』って。ものすごい気

迫のこもった声で、あたしは思わず身震いしたの・・・」

 彼女の話はこうであった。

 母親には情夫がいたのだった。彼は今でもこの町の実力者で、議員もしている。しばら

くの間、言い寄る男を母親は相手にしなかったが、父親の道楽のせいで、ある時どうして

も金が必要となった。彼女はとうとう身を売ったのである。それからは男の援助なしには

一家は暮らしていけなかったのである。しかし、夫と娘だけには絶対に分からないように

していたのだった。

 「あたし、それ聞いて母を憎んだわ。その時ばかりでなく何日も何日も母を責めた。そ

 んなお金を使うくらいなら、いっそ死んだ方がましだって。母が汚らしい女に思えてし

 かたなかった。父がいない時どれほど言い争いをしたことか・・・ 母を何日泣かした

 か分からないわ。母の料理に口をつけないほどだった。洗濯も決して母にはさせなかっ

 た、あたしの衣類は・・・・ ほんとに母は毎日泣き暮らしていた・・・あたしも・・

 だって、あたしが高校に行けたのもそのお金のせいなのよ・・・悔しくて・・・

  そして、父が最後に大失敗をした頃、ついに母をあの世に追いやった出来事があった

 の。男があたしに目をつけて、母に娘を、このあたしを抱かせろと迫ったのよ・・・」

 そのことは母親の、娘宛ての遺書で初めて分かったことだと言う。母親は娘を守るため

に男との関係を精算しようとしてこれまでの関係を細かにつづった文書を書き残した。

 そして、それをある所に隠してあることを娘にだけ告げていた。いざという時、それを

公にせよと。もし男が娘に関係を迫るようなことがあれば、それで身を守れ、と。

 「何も、死ぬこともなかったろうけど・・・でも、あんまり辛いことが重なりすぎて、

 耐えられなくなったんでしょうね。

  母はいわば、命がけであたしを守ってくれたの・・・・・」

 「もういい、・・・もういいよ! ・・・」

 もはや彼は耐えられなかった。憑かれたように話す女以上に、聞くことがつらかったの

である。

 彼は幼い少女を抱くようにして、髪をやわらかく撫でながら長い口づけをした。

 女の涙の味がした。

 まだ、夜の明けきらない薄暗い道を、彼は肩をすぼめて帰った。猫の子一匹いない道を

歩きながら彼は女の言葉を思い出していた。この町が、水底のようだと言ったことを。

 遠くに二本の煙突が見える。何だか知らないが白い煙を上げている。空にはどんよりと

した雲が白くたれこめていて、山々の頂きを隠していた。二筋の真っ直ぐに天に昇ってい

る。高く高く上り、やがて雲の一部になってしまうかのようだった。

 山々は、紅葉の盛りを過ぎ、茶色に濁り始めていた。

 寒々と白んできた風景の中で、木の葉の散りかけた樹木は、そよりともしなかった。夜

明けとはいえ、今にも降り出しそうな空気の色を透かして見えるそれらの木々のようすは

まさに海底の「珊瑚」そのものではないか。この町を囲む山々は確かに珊瑚礁とも見える

のである。

 何もかも静まり返ったこの町のたたずまいは時の流れを感じさせない。時代はずっと上

層を激流のように流れているのだろうか。この底ではそれすら感じることができないので

ある。

 もの寂びた、生気の乏しい風景であった。

 突然、白く輝くものが彼の視線をよぎった。我に返って見ると、それは目覚めたばかり

の白い鳩の群れが雲間からもれてくる朝日に羽をきらめかせて飛び交っているのだった。

 深海のようなこの町にも朝は来た。全ての物が目覚め、やがて間もなくやるせない現実

という物語の一頁がつづられていく。しかし、女はあの薄暗い家の中で、今こそ眠りにつ

くのだ。あたかも一匹の深海魚が岩のすき間に身をひそめて、しばしの休息をとるかのよ

うに、深い眠りの底に静かに沈んでいく。

                  12

 その一夜のことは彼にとっては甘美な思い出であり、かつ悪い夢のようでもあった。

 その後自分からあえて彼女に会おうとは思わなかったし、あちらからも連絡もないまま

に一週間ほど過ぎた。

 このまま、二人が忘れてしまえばよいのだ、と思っていた。別に互いに妻や夫のある身

ではないし、自由な関係だから誰に咎められるいわれはないが、それでも再び熱い心を燃

やすことは、それぞれの命を焼くことになるような気がした。また会えば、それだけ二人

とも傷ついていくに違いない予感があったのである。

 あの,暗い海底で女は一人、何を思っているのだろう。いやというほどに孤独の辛さを

味わい塩辛い涙は、さらに海の水を濃くしてきたにちがいない。あの夜、闇の中で彼に抱

かれて眠りながら彼女は、幾度も幾度も恐ろしそうに震えていたのであった。

 ある日、夜も更けて寝酒のジンをなめながら、あれこれと思いにふけると深い憂鬱に陥

った。壁の鏡をのぞいてみると、電灯の明かりに浮かぶ表情は死人のようであった。額に

は深いしわが二本老人のように刻まれていた。何もかもが彼に憂いをもたらすのだった。

どうせ、酔いも眠りも悪夢を運んでくるだけだろうと思うと床につくことすら辛かったの

である。

 その時電話がなった。

 あの女からのものだった。低い声で、しかも切羽詰まったような口調で彼女は言った。

 「ここを一緒に出ましょう!・・・」

 「え・・・? 」

 あまりにも唐突で、彼は言葉がつげない。

 「あたしをここから連れ出して・・・! 」

 「・・・酔ってるんですか・・・?! 」

 「そんなこと、どうでもいいわよ! 約束したわよね? 一緒に出ようって。」

 「・・・・・」

 女は秋桜の大草原のことを言ってるらしい。

 「・・・あったんですか? お花畑が・・・」

 「作ればいいのよ、そうよ、無ければ作ればいいのよ。お願い! 私を山の向こうまで

 つれてって。もういや、こんな所で終わるなんて! 」

 「向こうに幸せがあるとは限らないんですよ!そんな子どもじみたこと言わないで。」

 「だめでもともとなの、あたしには! 夢でも嘘でも何でもいい、ここの現実でなけれ

 ばいいの! 耐えられないの、こんな薄暗い生活はもういや・・・・・」

 女の声は次第に涙声になっていった。

 彼がその痛切さに黙したままでいると彼女は続けた。

 「あさっての日曜日、二時に村の外れの大銀杏の木の下で待ってます。

  日曜日、二時です。」

 そう、念を押すように言い終えると電話は切れた。彼は途方にくれていた。

                  13

 彼は、銀杏の木の下に行く気は無かった。女の思いは痛いほど分かる。その哀れさは胸

に迫るものがある。だが彼女の言うことはあまりに空想的だった。稚拙だった。

 ともかく、一時の衝動的なものか、または悪酔いした上での言葉だろうとしか考えられ

なかった。きっと今頃は本人も思い直しているか、忘れているだろう、と。

 こちらもなるべく忘れてしまおうと、翌日は仕事に気を紛らせようとしていた。だが、

世間の中傷は、いくら無視しようとしても彼の心を惑わせていた。あの「事件」を経た今

以前のような純粋さで子ども達と接することができなくなってしまった。

 幼い者達の無邪気な笑顔の向こうに、陰湿な「世間の顔」が見え隠れするのである。も

はや子どもは天使でも希望の星でもないのである。それはあくまで「人間の子」でしかな

いのだ。彼らはやがて無知に彩られた様々な罪と、恥辱と、残酷な生の営みの汚れを次第

に身につけた「人間」、呪われた存在として輪廻を続けていくのだ。

 夕日のおちかけた頃、木造校舎の廊下を歩いていると、一人の二年生の女子児童が、一

枚の銀杏の落ち葉を持って駆け寄って来た。瞳のクリッとした、おさげのかわいい子であ

る。

 「先生、落ち葉を見つけたよ。小人さんの落下傘みたいにクルクルとまわって落ちてき

 たよ。」

 にこにこと、いつも通り、弾んだ声で、一枚の扇型の葉を、ほら、と差し出した。

 「・・・・・・・・・・」

 「先生ってばぁ!・・・」

 「ばかやろう! みえすいたことを言うな! 」

 彼は我ながら思いがけない言葉に、身がこわばった。異常な怒声であった。

 少女も驚きと恐怖のために身動きもせず、ただ彼の顔を見つめていた。

 ふと、我にかえって、

 「ごめん、ごめん。みっちゃんの事じゃないんだよ・・・・ 本当だ、きれいな葉っぱ

 だね・・・・」

 しゃがんで、そう弁解してみたがすでに遅かった。彼女は唇をかんで彼をにらみつけて

いたが、やがて涙をポロポロとこぼすと踵を返して走り去った。

 +--- なぜ、あんなこと言ったんだろう

 後ろ姿を見送りながら彼は自問した。

 +---ちょっと疲れているんだ。それに、あの子が媚びるような物言いをするから。

 子どもは子どもなりに覚えるのである。どういう物の言い方をすれば大人が喜ぶかを。

だが、それは子どもの罪ではない。子どもを責めるべきことでもない。

 そんなことは充分承知の上でのあの怒声であった。それはもはや彼には説明できなかっ

た。間違いないことは、彼女の心に一生残る傷をつけてしまったことである。決して忘れ

ることはないだろう。

 彼は、茫然と少女の走りさった廊下に立ちつくしていた。

                  14

 日曜になった。その日は朝から肌寒い日で、どんよりした雲が空一面を覆っていた。

 彼は窓から朝方の風景を眺めた。頭が割れるように痛かった。というのは、夕べはしこ

たま寝酒を飲んだからである。あの女の声が耳について眠れなかったのである。明け方に

なってウトウトしただけで、まだとても起きられる体調ではなかった。

 もう、ひと眠りした。

 起きるとすでに十一時半を回っていた。また、女の事を思い出した。二日酔いも幾分お

さまっていた。

 今日の二時・・・そう女は言っていた。本気だろうかと彼は思った。そして、本気だろ

う、と初めて思った。なぜなら・・・彼女には失うものは何もないからである。あれほど

貧しい生活は今の世の中、そうはあるまい。老父は一人でも、役所の援助で充分生きてい

けるだろう。なにしろ、そこしれぬ生活力を秘めているのだ。

 娘は確かにあの父を憎んでいる。それでも断ち切れぬ何かがあって、これまで親子を演

じてきたのだろう。それは、しかし、親子愛などという歯の浮くような一言で説明できる

ものではあるまい。もっと複雑で、もっといやらしいものかもしれない。

 だが、今日、女はそれを断ち切ろうとしている。三十数年間つないできたものを、すっ

ぱりと切り捨てようとしているのだ。そしてその手伝いを彼に求めてきている。しかし彼

には分かっていた。自分はひとつの「きっかけ」にすぎないことを。二人の間の愛が、女

をこうさせたのではない、ということを。

 空は陰鬱な雲に覆われ、残りわずかな木の葉は冷たい空気にふるえている。ぽつりぽつ

りと雨さえあたりだしたようだ。雲の流れは恐ろしいほど速く黒く、冬の到来を告げてい

る。時折、ゴロゴロと遠雷が聞こえてきた。

 彼はいらだった。絶対に行くまい、と決心しながらも胃のよじれる思いが昼を過ぎても

彼を悩ませた。再び酒びんをひきよせコップ酒をあおった。もう一度酔って寝てしまいた

かった。だが、うとうとしはじめると北風がガラスを叩いて彼を迷いの中に引き戻す。

 約束の時間がきた。女があの、銀杏の大木の、落ち葉の中にたたずんでいる姿が目に浮

かぶ。さほど上物でもないベージュのコートの襟をたてて、もう歳に不釣り合いな赤いマ

フラーを口元までまきつけていることだろう。その瞳! まるで十六の娘のように未来し

か見ていないその瞳の輝きの透明さ、遠さ、無残な哀しさ! 初冬の嵐の中、寒さよりも

熱い期待に震えて立つ女の、恐ろしい孤独! ・・・ 末はどうであれ、今の彼女の運命

を左右するのは、この自分だ。

 恐ろしかった。正直な気持ちは恐ろしいのであった。この自分には、とうてい負えぬ責

任を突きつけられて、彼は自分の不甲斐なさに打ちのめされ、そして涙さえこぼした。

 二時間経った。ストーブの灯油も切れ、冷えきった部屋の中で、彼はみじろぎもせず座

ったままだった。突如、風にへし折られた桐の枝が台所のガラス窓をぶち割った。その大

音響が彼の呪縛を振りほどいた。

 二時間経った。約束の時間から二時間も経ったのだ。彼女ももうあきらめただろう。あ

の、深い泉のように深く透明に輝いていた瞳も、今は絶望と怒りと憎しみに濁り果ててい

るに違いない。あのあばら屋の暗い一室で泣き崩れているか、あるいは枯れた秋桜を茫然

と眺めやっているかのどちらかだ。

 彼はほっと溜め息をついた。大きな義務を果たした後の開放感のようなものを感じた。

これで良かったのだ、と自分をなぐさめようと努めていた。

 だが、やはり彼は確かめたくなった。女が銀杏のもとを去ったことを、女が無謀な夢を

あきらめきったことを確認したい思いが、今は彼を責め立てた。そして、ついに立ち上が

り、約束の場所に向かったのであった。

                  15

 外の陰鬱なこの様はどうだ! 黒雲は重く、速く、風は木の葉という木の葉を全部散ら

さんばかり、人影はおろか、生きるものはみな息をひそめて物陰に隠れている。

 彼は傘を吹き飛ばされまいと体をかがめながら村はずれの銀杏の方に歩みを進めて行っ

た。傘に雨か霰か、ポツポツと当たり始めた。横なぐりに吹きつける風にズボンの裾はは

ためき、ももの辺は濡れて冷え切っていたが、それでも彼はどうしても行ってみたかった

のである。

 大銀杏は季節風にいたぶられていた。何抱えもある幹の梢は揺れに揺れて見事な金色に

輝く葉をおしげもなく散らしている。金色の花吹雪とみまごうばかりの美しさに彼は目を

奪われた。

 そして、その根方に一つの人影が見えた。全ての景色が北風に揺らいでいる中、コート

も髪もバサバサとはためいているにも関わらず、じっと化石した女! 瞑想するかのよう

に視線を地面に突き刺したまま、両手でコートの襟を固くつかんだまま、みじろぎしない

女!

 五十歩ほどの距離をおいて、彼の足は止まった。すっかり葉を落とした柿の木とススキ

の陰に、しらずしらず彼は身を隠すようにしていた。

 冬の精でもあるかのように、彼女の姿は厳しく近寄り難い気迫を発している。底知れぬ

恨みと絶望がそのまま形となって現れたようであった。その顔は死人のように青黒く、そ

して表情を無くしていた。

 彼の足はいつまでもすくんでいた。近寄ることも戻ることもできなかった。ただ、茫然

と震えながらたたずむのみであった。

 みぞれ、みぞれ、みぞれ・・・・暗く、寂しく体の芯まで滲みとおるようだ。

 どのくらい時間が経ったのだろうか。

 女の化石した体が、ふと動き始めた。彼は期待した、そのまま女が諦めて家へ、あの粗

末でも暖かなしとねのある秋桜の家に戻ってくれることを。それが彼の救いとなるのだ。

それをどうしても確かめなければならないと思っていた。

 寒さと、一種の感動のために彼は立ちすくんだままだった。女の姿もその後止まったま

まである。

 突然、烏が一声鳴いた。二人ともハッとして空を見上げた。だが、烏の姿はどこにも見

えない。しかし女はその時何かを決心したらしかった。そして、ついに青ざめた足を一歩

踏み出した。ようやく帰る気になってくれたのか・・・そう思って彼は安堵した。霙はい

よいよ激しく、空はもはや夕闇の気配を漂わせている。こんな陰鬱な風景からは、早々に

逃げ出した方がよい。

 しかし、・・・女は帰るのではないらしい。何やら辺りを探しまわっている。そしてつ

いに拾いあげたものは、畑の隅に打ち捨てられていた、半分腐りかけた荒縄であった。何

をする気だろうかといぶかしく眺めているうちに彼女はその縄を、銀杏の太い枝に投げか

けた。

 彼は悟った。女の意図が分かった。「止めなければ!・・」と直観したが、しかし、足

が動かない。それどころか胸の動悸と同じほどに、膝がガクガクと震えるのであった。

 女はゆっくりと、しかし決然と準備を進めていった。かけた縄を枝に固く結びつけて、

クンクンと引っ張ってみた。やがて輪を作り、そこらから材木の切れ端を転がしてきた。

そして、その上に女はよろけながら立った。

 彼は頭の芯がぐらぐらとしていた。止めなければ、という思いと、行ってはいけないと

いう得体の知れない力とが争っていた。足はやはり動かない。

 女はとうとう縄を首にかけた。黒雲はいよいよ速く、霙は横なぐりに吹きつけ、女のコ

ートは強風にはためいている。彼女はためらうように、しばらく爪先立ちで揺れていたが

ついに思い切ったように、その命を縄に預けた。

 ああ、ひとの体とは、命とは、なんと重いのだろう。

 ブランと大きく揺れたと思ったら、無限の重力に引かれて、女の体は地の底に向かって

吸い込まれようとする。それを引き止めようとする濡れた縄がギリッとうなる。そして、

その両方の力にあらがおうとする「生」の本能が彼女の体をバタつかせ目は恐怖のために

見開かれた。

 さすがに彼も見過ごすわけにはいかなかった。呪縛は解け、無意識のうちに飛び出して

いった。

 だが、その瞬間、思いもよらぬことが起きた。腐りかけていた縄が、ブツッと音を立て

て切れたのである。ずしりとパンツを見せて、女はしりもちをついた。恐怖と苦痛のため

に霙と泥にまみれて女はせきこみあえいでいたが、その姿は見苦しくもあり滑稽でもあっ

た。

 彼は、ほっとしながら女の側に歩み寄り、おずおずと声をかけた。

 「・・・ 大丈夫ですか・・・」

 女は、その瞬間ビクリと肩を震わせた。初めて彼の存在に気付いたのだ。だが、振り向

きもせず再び泥の中でせきこんだ。

 彼はどうしていいか分からず、ただ突っ立っていた。心配と、寒さと、恐怖と、そして

羞恥心のために彼の膝はまだ震えていた。

 しばらくたって、もう一度、だいじょうぶかと言いかけたそのとたん、

 「・・・見てたのか・・・」

 男のような低い声で、女は目をむいた。

 「見てたのか!・・・」

 次は怒声であった。その形相と視線の凄まじさに彼はたじろいで一歩後ずさりしたほど

だった。

 「あの・・・」と言いかけた時だ。突然女は跳ね起き、彼にむしゃぶりついてきた。

 初め、抱きつかれたと思ったが、そうではなかった。

 「よくも恥をかかせたな!・・・」

 その長い指が彼の顔に爪を立て、目玉を引き抜こうとする。その目は異様に輝きを放ち

憎悪がみなぎっている。女は動物的なうなり声をあげて彼に組みついてくる。

 一瞬、彼は「殺される!」と直観した。まだ縄を首に巻き付けたまま、女は振り払って

も振り払っても、執拗に向かってくる。

 彼は不気味な恐怖を感じ、本気で「やめろ!」と怒鳴った。しかし女は動じない。

 二人は倒れ、霙で濡れた畑の上で取っ組みあっていた。女にこれほどの力があるとは信

じられなかった。彼の頬は傷だらけであった。かろうじて目玉だけは防いでいた。

 もう一度右手の攻撃を受けて、激痛に悲鳴をあげた後、彼は無性に腹が立ってきた。

 「ちくしょう! 勝手に決めて、勝手に待っていたくせに! なんで俺が恨まれなけれ

 ばならないんだ!・・・」

 彼は腹の底から怒鳴った。

 「いい加減にしろよ!」

 そして、やっとの思いで女を蹴り跳ばした。それでも、女は向かって来る、髪を振り乱

し、コートの裾を取り乱して、なりふり構わず組みついてくる。

 こんな場面を、かつてどこかで見たような気がした。しかし思い出せないまま、彼は女

を何度かなぐりつけた。鼻血が吹き出た。口が切れた。彼女の顔がひどく腫れ上がった。

 彼に馬乗りになっている女の太ももの白さがいやに艶めかしく見えながらも彼は本気で

「殺される」と思った。そのとたん、強い恐怖に襲われた。彼が体をやっとひねって逃げ

ようとしたその時、女は左手の薬指に噛みついた。

 頭の芯まで激痛が走り、彼は声も上げられなかった。女は口を離さない。ありったけの

力で噛んでくる。彼は女の頭に手をかけ、突き離そうとした。それでも駄目で、今度は足

をかけてグイグイと押し、そして蹴った。それでも女は離れない。彼は痛みに目がまわっ

てきて、体に力が入らなくなってきた。

 その時、ゴリッと鈍い嫌な音がしたかと思うと、気の遠くなるような痛みが走った。そ

してやっと女は指を離した。見ると、第一関節から先が奇妙にぶら下がっている。血が吹

き出している。彼は失神しそうになるのをこらえて必死に立ち上がり、駆け出した。

 女はゼイゼイと肩で息をしていたが、口の脇に血を滴らせて、再び「待て!」と追って

くる。今度つかまれば本当に目を潰される、殺される! 痛みによろけながらも、彼は切

れかかった指を押さえながら走った。女が泥に滑って転んだ。言葉にならない悲鳴のよう

な叫び声が少し遠くなって聞こえた。だが彼は振り返りもせず、ひたすら走った。走って

走って、ようやく車に出会い、病院まで担ぎこんでもらったのだった。

                  16

 傷の痛みよりも、迫ってくる女の恐ろしさに、彼は治療の間中うなされているようだっ

た。医師には、散歩中ころんだはずみに受け身をしようとした手が古いトタンの上に落ち

錆びかかった切断面で切ってしまったのだ、と説明した。こんな天気に散歩・・・と医師

は一瞬けげんな表情をしたが、余計なことに関わる気はないようで後は何も言わず手際よ

く処置をしていった。

 三分の二ほどちぎれた指だったが、なんとかくっつくようにしてもらい、ギブスをかけ

て三角巾で腕を吊ることとなった。

 何日か、仕事も何も手につかぬ日々が続いた。傷がうずくたびに、あの時の女の形相が

思い出される。いざ、という場で躊躇した男への底知れぬ怒りと憎しみに満ちたあの目の

異様な輝き! 彼は恐ろしかった。 鼻血と鼻水を垂れ流したままで、殴っても蹴っても

全くひるまずに、執拗に彼に向かってくる女。この世の者とは思えない姿に、まるで妖怪

にでも襲われたような恐怖を感じるのだった。

 しかし、一週間ほど経ってみると、ふと違う思いが沸いてきた。あれほど切ない女の姿

がこの世にあるだろうか、と。盛りを過ぎた一人の女が全ての世俗を捨てて、純粋に一人

の男に残りの人生を賭けて、そしてそれが裏切られ、あげくに首吊りにしくじる姿をその

男に見られて・・・・・

 孤独と絶望に満ちた彼女の気持ちを思うにつけ、彼は深い感動を覚えるようになった。

そして、木の葉がすっかり落ちてしまった頃にはもう一度会いたいとさえ思うようになっ

ていた。けれどもその後、女の話は何も彼の耳には入ってこなかった。

                  17

 指を噛み切られた日から二週間ほど経ったある日、職場で例の先輩が思いもよらない事

を教えてくれた。

 「例の女好きな爺さん、死んだってよ。」

 爺さんですか、彼女ではなく・・・と、思わず言ったら先輩は、なぜ娘が?、というよ

うな怪訝な顔をした。

 「どうして亡くなったんですか? 」

 彼は取り繕うように続けた。

 「ああ、二三日前に庭で倒れていたのを娘が見つけたんだそうだよ。どうも酔っぱらっ

 て便所にでも行こうとして縁側から足を踏み外して庭の敷石に頭をぶつけたらしい。大

 分出血したらしい、初雪が真っ赤に染まっていたらしいよ・・・

  ところでな、その死因については警察は娘を調べたという話だよ。もしかしたら娘が

 ・・ってなぁ。いや、単なる噂だからこれ以上は言わないがね・・・・・ 」

 あの、深い皺のたたまれた、笑うとなんともいえぬ愛嬌のある老人の顔が目に浮かんで

きた。

 あの秋桜の庭は今はどうなっただろう。一昨日、うっすらと積もった雪の中に血の海を

作り、赤い秋桜の花びらに抱かれるようにして死んでいる老人を彼は思った。

 やっぱりまっとうな死に方をしない、因果応報だ、と町の人々は噂しあった。娘に殺さ

れてもしかたない、と。

 それにしても、その娘はどうしているのだろう。二親を亡くし、あげくは親殺しの疑い

をかけられ、一体どこまで人生にいじめられる女であろうか。

 確かに警察からは事情聴取を受けたが、すぐに調べは終わったとのこと。それでも人々

は疑いを解こうとはしたがらなかった。世間の『退屈』のちょうどよい餌食となったわけ

だ。今頃は葬式でせわしく動きまわっていることだろう。どれほど親戚があるのだろう、

どれだけの人が手伝いに集まるのだろう。寂しい通夜の様子が頭に浮かんできた。女一人

きりの、ろうそく一本きりの、なんともやるせない、寒々とした情景であった。

 指の傷がしきりに疼いた。

                  18

 なんとなく悶々とした日々を過ごした。次の日曜はまた小雪模様であった。あの真っ黒

な雲ではなく、辺に明るい、いぶし銀のような空から、ひとひらふたひらと牡丹雪が舞っ

ている。

 彼は昼近くまで迷っていた。どうしてもあの女の事が気になってしかたがない。行って

みようか、でも会わせる顔がないではないか・・・・・・・

 さんざん迷ったあげく彼は決心した。もう一度この目で、あの家を見ておきたかった。

 いよいよ本格的な冬を迎える。ひんやりと冷たい空気、まるで谷川の底にいるかのよう

な肌ざわりの風景の中を彼は傘をさして女の家に向かった。今日は風はなく大きな大きな

雪片がふうわりふうわりと、今にも止まりそうな速度でゆっくりとおりてくる。彼もまた

ゆっくりと歩を進めた。

 やがて、あの小さな家が見えてきた。森の入口の番小屋のようにこじんまりと、しかし

それなりの歴史を漂わせて、そこにあった。屋根にはうっすらと雪が積もっていた。

彼はゆっくりとだが、ためらうことなくその家に向かった。

 いつの間にか、牡丹雪は細かな雪片に変わっていった。さらに寒気の強くなった証拠で

ある。細かな雪だが、しきりにふってくる。本降りになった。これは根雪になるかもしれ

ない。

 あの秋桜の群落は・・・ すでに枯れ果てて葉はどす黒く腐り、茎は八方へ気ままに倒

れている。なんの美しさもなくなったところへ雪は間断なくふりしきり、その醜さを覆い

隠そうとしている。

 とうに花の季節は過ぎたのだ・・・ 分かり切ったことを彼は頭の中で繰り返しながら

彼はしばらく庭を眺めていた。

 家はひっそりしている。人の気配は感じられない。もはや廃屋だ、そろそろ帰ろうかと

考え始めた時、ふと玄関で物音がした。彼はそちらに踵を向けた。

 彼女だった。

 この前のベージュのコートを着て、髪も顔もいつもより入念に整え、そして今、玄関に

錠をかけているところであった。足元には大きな旅行鞄が置いてある。

 彼は無言のまま近寄り、足を止めた。

 女は気配に気付き顔をあげた。そしてハッとして瞳を一瞬輝かせた。数秒間、彼の顔と

吊った手を眺めていたが、やがて何も言わずに再び手元の錠に視線を落とした。

 彼も何も言わなかった。その作業の終わるまでじっと待った。

 錠は調子が悪く中々かからなかった。彼女はいらだたしそうにガチャガチャやっていた

が、やがて心地よい音をたてて鍵は回った。

 その途端、女の動作は止まった。

           ごめんなさい・・・・・

 小さな、ちいさな声で、女は顔をあげずにつぶやいた。

           ごめんなさい・・・・・・・・・

 女はもう一度つぶやいた。そして、うつむいたまま、牡丹雪のような大きな涙を雪の上

にふたしずく、ポトリと落とした。

 彼は黙っていた。しかし彼の胸には、えも知れぬ熱い思いが沸きあがってきた。

 やがて女はその場にうずくまった。そして膝に顔を埋めるようにして両の掌で顔を覆い

静かにしずかに肩をふるわせて嗚咽した。

 彼はやはり黙っていた。女の悲しみの深さが言葉を奪っていた。そして彼の目にもわれ

しらず涙があふれてきた。

 女はうずくまったまま、あるかぎりの涙をしぼった。彼も立ったまま泣いた。その二人

をいよいよ降りしきる雪が包み込んでいく。だがその雪は冷たくはない。この時初めて心

が一つに溶け合ったことを感じた。女の涙は永遠に続くかのように思われた。

 ふと、車の止まる音が聞こえた。彼が振り返ると五十メートルほど先の町道に白い古び

たライトバンが止まっている。女は静かに立ち上がった。足元の鞄を手に取ると、うつむ

いたまま、涙を流しながら歩き始めた。その車の方に向かう。

 車の中から痩せぎすの中年の男が降りてきた。ポケットに手を入れて二人を見ている。

 女は振り返りもせずライトバンに向かう。車内には荷物が満載だった。

 どこかで見たことのある男だった。そう、いつか茸と『お札』を持ってきた男だ、と気

付いた。彼を中傷したあの男だった。田舎風だがきちんと身なりを整えている。

 ああ、二人は旅に出るのだ。自分の知らない所へ。彼女の望んだことを、あの男はかな

えようとしている。

 彼を置いて二人は去る。彼は指の傷の痛みを抱えてたたずんでいる。ただ立ちすくむば

かりだ。いま女は男のもとに一途に向かっている。

 雪は降る。激しく激しく降りしきる。まるで二人の間に幕を下ろすように白いとばりと

なってあの二人を包み隠そうとする。彼との間をいっそう遠いものにする。

 雪は降る。この家の長い物語をみんな埋め尽くすかのように、全てを化石のように封じ

込めようとするかのように・・・・

 あの老人も、早くに旅立ったそのつれあいの思い出も、女のこれまでの半生も、そして

立ちすくむ彼も、あの枯れた秋桜の庭とともに全てを真っ白く葬り去ろうとする。

 雪が降る。

 ついに女の後ろ姿は、その白い闇の彼方へ溶けるように消えていった。

 ますます激しく降りしきる雪の中で彼は長い間立ちすくんでいた。やがて、枯れ果て乱れ倒れている秋桜の残骸と共に、彼は深い雪に埋もれて消えていった。

                                   完

                          

平成7年 8月22日(火)

改稿  令和6年 11月2日

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