「やっと涼しくなってきた・・・」
達也はほっとため息をついた。
「どうも夏は苦手だ。特に東京の夏は・・・」
彼は、毎年同じことを、と苦笑いしながらもぼやいていた。
昭和も終わりに近い七月の中旬、いよいよ夏も盛りにという候であった。この年は異常な猛暑で、すでに6月の下旬には深刻な水不足が各地で報告されていた。
東京の私立大学の文学部二年生である達也は雪国生まれの雪国育ち。そのせいでもあるまいが、彼は都市のまとわりつくようなこの暑さには辟易としていた。それで前期試験を適当に終えるとすぐに逃げるように帰省の途に着いたのだった。
この日もまた、朝から晴天だった。試験明けでゆっくり眠ろうとしたのだが、夏の強い日光はカーテン越しにも容赦なく差し込み、彼の顔面を照らした。とうとうその暑苦しさに負けて起き出してみたら、時計はまだ八時を回ったばかりだった。この安アパートを発つのは午後四時と決めていた彼は、昨夜暑苦しさになかなか寝付けなかったせいもあって無性に腹立たしかった。まだクーラーなど学生が持てる時代ではなかたった。しかたなしに残り物の飯を食い、インスタントのコーヒーをすすり、やがて何やかやと荷造りなどしたり部屋を掃除してる間に、それでもいつしか出発の時刻となり、けだるそうに紙袋をぶらさげて部屋を出てきた。安物のスニーカーのかかとがつぶれていて、わりと重くなった荷物のせいで歩きにくかった。
あたりまえのように、暑い夕方であった。
上野の新潟行きのホームに着いたのは五時半をまわった頃だった。六時二十分発の急行「とき」までにはまだ間があったが、この暑さの中、動き回るのもおっくうなので、新聞紙に腰を下ろして時間を待つこととした。
さすがに陽も傾きかけ、そろそろホームの鉄柱の陰が永く伸びてきた。達也は、自分とはまったく関係を持たない周囲の騒音やタバコの吸殻の散らかっているうら侘しいホームを眺めているうちに、次第に物思いに沈んでいった。
あの日は、真冬で風の冷たい日だった。もうおととしのことになってしまったんだな・・・・
達也はぼんやりと目を細めながら膝を抱えた。人にスレた土鳩が一羽、彼のわきでくずをつついていた。
たしか、年末の二十二日だった。おれは予備校が休み
に入ったんで、家に帰るつもりで昼すぎにこのホーム
に来ていたんだ・・・
年末でひどい混雑だった。一時間ほどここで新潟
からの折り返し急行を待っていた。天気は良かったが
寒かった。ホームにようやく列車が滑り込んできた。
というより、やっとたどり着いたという有様だった。
その全車両の屋根にはビッチリと暑さ三十センチも
ありそうな氷雪を乗せていたのである。また、その足
元、車輪にも吹き付けられ、巻き上げられた氷を重そ
うにまとっていたからである。冬はいつもこんなものだ。特に県境の山脈のふもとに近い彼の故郷は大雪になりやすい。この列車は三十分ほど遅れて到着した。これほど遅れては急行とは言いがたいものだが、しかしこれは特に珍しいことではない。ホームにあふれる帰省の人々もあきらめ顔で誰一人騒ぐ者もない。ただ都会で育った幼子が線路に砕け落ちた雪の塊をみて矯声をあげているのみだ。それを若い母親がすごいねえ、などとあやしている。達也にはこれらの光景がどこか物悲しく思えた。この大雪と文句の一言も言わずに黙々と日々格闘しているふるさとの人々の姿が自然と思い起こされた。
一昨年の冬を、あれこれと思い出しているうちに急行のホーム到着を告げるアナウンスがあった。達也は腰を上げた。あたりはいつの間にか薄暮となり、前後を見回すと、くにの匂いを感じさせる老夫婦などと共に、やはり夏休みに入ったせいであろうか、学生らしき姿もチラホラ見られた。列に並んでいるのはせいぜい二十人程度で、自由席にも楽に座れそうでほっとした。
熱く焼けたボディーを震わせて列車が滑り込んできて、ドアが開き、達也は進行方向に向かって右の座席の窓際に座った。
あの日の混雑といったらひどいものだった。
一時間早く並んでも、とても座れなかった。大体、自由席車両は少なかったし・・・・ おれはなんとか出入り口付近にやっと居場所を見つけた。通路に座ることすらできないほどのすし詰め状態、これから三時間座りっぱなしか、と気が滅入っているところへ発車のベルが鳴った。その瞬間に、あいつが飛び込んできて、おれの真向かいに立ったんだった・・・・
4人がけの窓際でそう思い返していると、彼と対角の席に四十過ぎの背広姿が座った。その他にはだれも来なかった。車内は荷物を網棚に上げたり、弁当を買いに行ったりと、しばらくはざわめいていたけれど、やがてそれも静まり乗客が皆一息ついた時に、発車を告げるベルがけたたましく鳴り響いた。
時折、見送りの人々が笑って手を振りながら窓を通り過ぎていく。都会の風景の醜悪さが、次第に夜の闇に覆い隠されていく。それと同時に建物の窓の灯りや様々なイルミネーションが列車の流れに伴って浮かび上がってくる。この、おのおのの家庭が再び再構成されようとする時間帯は達也の好きな時であった。彼はまた回想する。
年末の帰省列車に飛び乗ってきた若い女をなにげなく見やった時、それは見覚えのある顔であった。彼女もふと彼の方を向いて二人の目があった。そのとたん、彼女の表情に驚きが走った。
「あれー!」といかにもびっくりしたように目を見開いて彼女が口を切った。
「達っちゃん! 達也くんでしょ?」
「陽子!」
やっぱりそうか、と彼も名を呼んだ。ちょとの間、二人とも言葉が出ず、互いに顔を見合っていた。懐かしい顔であった。
「ひさしぶりだなあ・・・」
ようやく彼が口を切った。
「本当に・・・」
陽子が答えた。その後、また数瞬、沈黙が続いたが、やがて、彼女が話し始めた。
「何年ぶりかしら。一度中学のクラス会で会ったきりかしら・・・」
「ああ、そうだね。もう四、五年経つのかなあ。」
達也も答えた。同時に、綺麗になった、と思った。そして彼は、子どもの頃の陽子のことを思い起こしていた。
真っ赤な頬をした、少々勝気な陽子の四、五歳の彼女がまず浮かんできた。それから、冬のわずかな晴れ間に、雪の上で幼い弟を負ぶって子守をし、あやしている少女の姿が思い出された。
陽子の家は八百屋であった。母親は彼女が四つか五つの時に、弟の竹夫を産んですぐ他界した。父親は巌として後妻はもらおうとしなかった。それで陽子は学校に上がる前から母親と主婦の役を任せられるようになっていった。家業の八百屋は近所相手の実に細々としたもので、一家は貧困であった。
そのせいか、小学校から中学生へと、だんだん娘らしく成長するにつれ、陽子の性格に陰が生まれ、幼い頃の勝気な感じから大分無口な子になっていった。達也は彼女を幼馴染として、常にいくらかの同情を持って見てきたのだった。
陽子とは中学生まで一緒であったが、その後彼女は最も近い商業高校へ進学した。これでも大分無理をしての進学であったと、親から聞かされた。高校時代の彼女については何も知らない。
お互い、言葉少なに他愛のないことを話しているうちに山脈を抜ける名高いトンネルに入り、話し声も聞こえないようになった。そして十四、五分の後に二人の乗ったすし詰め急行は最も走行困難な世界に躍り出たのである。
トンネルを抜けると風景は一変した。これほど見事に気候・風景のコントラストを見られる所も世界中少ないのではあるまいか。雪で押し込められた越後の空は達也と陽子の見慣れた、鉛色の雲の垂れ込める重苦しい雪国の空であった。
その空が見えたのもつかの間、すぐに猛烈な勢いで吹雪となり、、視界のすべてを不気味に明るい白で塗りつぶしてしまった。
黙ったまま、この風景を眺めていた後に、ふと陽子はつぶやいた。
「重い風景だけど、でもなぜか落ち着くわね・・・」
達也は黙って頷いた。
吹雪のため、二十分ほど遅れて列車は故郷の町に到着した。駅から靴を雪で濡らさぬように苦心しながら途中まで二人で帰った。生まれた町は小雪であった。
たった今、はす向かいに座っていたサラリーマンが読んでいた週刊誌を置いて席を立っていった。手洗いにでも行ったのだろう。ネクタイを緩めながら、いかにも蒸し暑いように顔をしかめながらだるそうにあるいていった。達也はチョコレートを買ってきたのを思い出し、紙袋から取り出した。暑さでとろけかけていた。ひとかけら口に含んで窓の外を眺めた。だいぶ暗くなったが、人家の明かりはまばらだった。
その暗闇の中に再び陽子の顔が浮かんできた。
達也の覚えている子どものころの陽子は、いかにも田舎風であった。雪国の娘の素朴さと、そして泥臭さを併せ持っていた。おかっぱ頭の、まるでこけしのような顔立ちをした陽子は、しかし、早くもその口元に生きることの苦しさを漂わせていたように思う。唇をかみしめるのが彼女の癖であった。ひときわ印象的であったのが、いかにも雪ん子の、その真っ赤な頬の水々しさであった。
あの冬の日、成人した姿をふいに達也の前に見せた時も、ほんのりとした赤みが、まだ化粧をほどこし始めたばかりの白い肌に残っていた。やや細面になったけれど、その控えめで情の豊かさを思わせる顔立ちも又、そのままであった。
陽子は確かに美しくなっていた。肩のあたりまで伸ばした、しなやかな髪はあくまで黒く艶やかで、額にわずか後れ毛を残して無造作に後で束ねてあった。質素なコートに包まれたその華奢な姿は、今最も美しい時を迎え、誇らしげに、すっと立っていた。若い女性の自然とにじみ出てくるあでやかさ、まぶしさに、達也はまっすぐに彼女を見ることができないでいた。
しかし今思うと、そんな陽子をさらに美しくしていたのは、その全体的な印象に表れている孤独感だったように思う。なにか、周囲との交わりを拒むかのようなその姿は決して若さの驕りなどというものとは違う種類のものであった。達也はそれを感じたとき、自然と彼女の生い立ちが思い合わされ、陽子が幸福とは縁遠い女に感じられたのであった。
そして、もう一つ、その時ひどく気になったのは、そういった暗い印象を持って列車に乗り込んできた彼女が、彼を達也と認めるやいなや、その沈んでいた瞳が異様に無邪気にな陽気さに輝き始めたことだった。達也には、その姿と、この子どもじみた瞳の輝きがひどく矛盾して感じたのである。
その年の冬は大雪であったけれど、暮れから正月にかけては好天に恵まれ、雪国の正月としては穏やかなものだった。しかし、年始といっても何もなかった。雪は風景だけでなく人間の動きさえも封じ込めてしまう。おのおのの家の戸口に注連縄を打ちつけ、あとは家の中で酒を飲むか、餅など食べながらテレビを見るくらいしか為すことはない。
達也は元日を寝て暮らし、二日はあまりの退屈さに呆けたようになっていた。予備校生の分際で、とは分かっていたが、せめて三が日くらいはのんびりさせてもらおうと思っていた。両親は朝から年始まわりに出かけていた。妹も友達の家へ遊びに行っていて、彼は留守番であった。
昼を過ぎて、炬燵に横になりながらミカンをほおばっていると、思いがけなくも「こんにちは!」と若い女の声がした。達也は返事をして母の綿入りチャンチャンコを引っ掛けて玄関に出てみた。
陽子であった。白いセーターにジーンズ、そしてオレンジ色のゴム長靴という姿であった。
「明けましておめでとうございます。」
改まって挨拶されたので、達也も適当に挨拶を返し、まあ上がれ上がれ、と促した。陽子は彼一人で誰もいないと聞いて、いくらか迷ったようだったけれど、じきに思い切ったように上がってきた。
彼女が達也の家を訪ねたのは小学校二、三年生以来のことであった。彼女は懐かしそうに、家の中を見回していた。居間の炬燵で達也の入れたコーヒーをすすりながらあれこれと話し始めた。幼い頃の想い出話の後に、達也は彼女に今どんな生活をしているのかを尋ねてみた。まとめると次のようなことであった。
彼女は高校を出てすぐに東京に就職した。どこかの小さな事務所だそうだ。この春上京してからまだ半年とちょっとであった。
「がんばって働いて、弟の竹夫を大学まで行かせてやりたいの・・・・」
そう彼女は話した。
「それで仕事は楽しい?」
達也は聞いた。陽子は黙って目を伏せた。その時達也は、それ以上聞かなかった。大体察しがついたのである。若い彼には重荷だったからである。
「私のことより達也君の方が心配よ。」
そう言って陽子は笑った。
「しっかりしなさいよ。現実は厳しいんだからね!」
冗談めかしてさらに言う。痛いところを突かれた達也は、ただ苦笑いするばかりだった。
思い出から引き剥がすように車内は蒸してきた。冷房の効きが悪い。達也の乗る車輌は空席が目立ってきた。夏の夜は次第に深まってくる。彼のはす向かいにいた中年の男はさっきの駅で降りていった。達也は前の座席に脚を伸ばして、ゆっくりと背伸びをした。良い心地であった。時計をみるとまだ八時前であった。全行程の半分ほど来ていた。
背景の真っ黒な窓ガラスには通路を隔てた隣の席の若い母子と五十がらみの男が向かい合っているのが写っていた。カップ酒の酔いが回ってきて良い気分になったのだろう。故郷の百姓らしい男は、やっと一つになったくらいの男の子を方言丸出しでかまっていた。若い母親は、見も知らぬ酔っ払いに半分困惑しながらも、それでも男の善良さに安心したのか、逃げ出しもせず愛想よく応対していた。達也には、見慣れた光景であった。新潟へ帰るのだ、という想いがしみじみと感じられた。
こうやって帰省するたびにふるさとは豊な表情を見せてくれる。ここ二、三年達也は、春は雪解けの頃、盆地のほとんどを占める広大な水田に一面の残雪を見ながら上京する。そして夏休みに入った今頃帰ると、雪に覆われていた耕地には若い稲穂がその青々とした葉をなびかせている。夏休みを終えて再び上京する頃には稲は黄金色に実をつけそろそろ稲刈りの便りが風に乗ってくる。
けなげな農村社会をいたわるように周りをとりまく大小の山々もまた、残雪の姿、むっとむせかえるような緑をまとった姿、そして更に深みを増した緑が紅葉の気配を漂わせる姿、・・・ 様々な姿を見せてくれるのである。
そして、陽子とばったり会った年末の帰省時には、田も家も、山々さえも、すべてが分厚い雪のしとねに覆われてしまうのであった。
達也はまた、陽子のことを思い出していた。
今から思えばあの頃すでに大分ひどい状態だったに違いない。けれどすべてを自分の胸の内にしまっておくつもりだったんだろう。小さいころから我慢強い子だった・・・・
陽子は神経の細やかな、優しい子だった。特に弟の竹夫の面倒はよく見ていて、近所でも評判であった。が、反面、大変忍耐強い子で、いじめられたとしても、人の前では決して涙を見せるようなことはなかった。そういう時はぐっと唇をかみしめて動かずにいるのだった。
昨年の正月に訪ねて来た時、陽子はふと黙り込むことがあった。放心したように炬燵の上のミカンを見ていた。そうかと思うと、急に一人でしゃべり出し、やがて呟くような独り言へと変わっていくのだった。
何かを耐え忍んでいるような陽子に、達也は強いて問うことはしなかった。なにか、立ち入りがたい世界のような予感があったのだ。
そうこうするうちに冬の短い日は暮れかけて、窓を埋めそうな勢いの雪は薄闇の中に青白く浮かび上がって見えた。家族はまだ帰ってこなかった。
「そろそろ帰るね・・・」
短い沈黙の後、ふいに陽子は言った。
「ねえ、私の東京の住所教えておくから大学うかったら手紙ちょうだいね。」
「うん、わかった。」と達也は答えて炬燵から立ち上がった陽子を玄関まで送った。陽の当るうちは暖かかったけれど、もう大分冷え込んでいた。
「それじゃ、がんばってね。さよなら。」
ブルッと一度体を震わせた後腕を抱えて、暖房で上気した頬を真っ赤にさせて彼女は別れを告げた。家々の窓や玄関から漏れてくる灯りに昼間踏み固められた雪道が凍って冷たく光っていた。ツルツルと滑りやすい雪の細道を、陽子は白い息を吐きながら慣れた足取りで闇の中へと消えていった。
姿が見えなくなるまで、複雑な面持ちで彼女を見送っていた達也は、夜の冷たさにブルッと震えて我に返った。透き通った星の瞬きが凍てついた夜空に張りついていた。今夜は冷え込む、そう思いながら達也はそそくさと家の中に入った。
それから一週間して達也は東京に帰った。陽子はそれより二、三日前に帰ったと家人から聞いた。東京に帰った達也は間近に迫った大学入試に全力を費やさなければならなかった。あわただしく一月二月は過ぎ去り、何とか今の大学に入学が決まった。三月も終わる頃にはアパートも見つかった。ホッとした達也は、後は入学式まで実家にいて、家の周囲の雪片付けをしたり近くの川でのんびりとヤマメ釣りなどして過ごした。
春の暖気で雪崩れた後の山々の地肌が大分目立ってきて、地面から陽炎がゆらゆらと立つようになった頃に、大学生となって達也は上京した。4月も半ば、よく晴れた日であった。車窓からは、まだ黒々とした水田は見られなかった。幾何学的に整えられた水田の畦が一面に覆いかぶさっている重い雪の上に、その筋をはっきり表していた。広い雪景色の中に、ひとかたまりの墓石や、五、六体のお地蔵がその頭だけを雪の上に出していた。春の陽射しを浴びて並んでいる地蔵達のその表情は、かすかにほほ笑んでいた。雪消えも間近であった。
やがて達也が東京での一人暮らしにも慣れてきた頃、おそらく五月に入ったばかりの頃に、陽子との約束を思い出し、手帳にメモしてあった彼女のアパートに短い手紙を書いた。地図で調べたら、さほど遠い所ではなかった。
鯉のぼりの元気よく泳ぐ、ある五月晴れの日、陽子から返事がきた。三日と経っていない。学校から三時頃帰宅すると部屋のドアに水色の封筒が差し込んであった。開封してみると、生き生きとした陽子の文字が躍っていた。
「合格おめでとう! 良かったね!・・・」
などと、若い娘らしい調子で祝いの言葉があって、最後に、ずっと達也からの便りを待っていたのだ、結んであった。
いかにも待ちかねていたふうな文面に、達也は少々意外に感じた。今まで彼女のことを忘れていたことがすまなく思われもした。
しかし、それにもまして達也は、彼女のあまりの喜びようにその生活状態を思わずにはいられなかった。おそらく、非常な孤独の中に陽子はいるのだろうと思われた。なぜか、それは確信できるのであった。
幼い頃から陽子は一人ぽっちということが多かったが、中学時代には大変仲の良い女の子がいて、いつも二人で行動していた。ところが、間もなく三年生になろうという春先のこと、その友人が突然亡くなったのだ。事故死であった。
帰宅途中、両脇をまだ二メートルもの雪の壁で囲まれた狭い道路を歩いていて、彼女は前方からやってくるトラックを認めた。それで出来るだけ雪の壁に身を寄せてトラックをやり過ごそうとした。トラックもまた最徐行したが、ちょうど彼女の所へさしかかったところ、対抗車が現れた。とてもすれ違うことのできない道幅だったので、トラックの方がバックすることにしたらしい。
その瞬間、雪の壁にまだ身を寄せて動かずにいる少女のことを、トラックの運転手は忘れてしまった。後退を始めたトラックは、ゆっくりとゆっくりと、少女をその側板で雪の壁に押しつけ始めた・・・・
彼女にとって、その時間がどれほど長かったことだろう。苛立たしいエンジン音の隙間に、断末魔の悲鳴をようやく聞きつけて、二人の運転手が慌てて駆けつけた時、彼女はすでに意識が無かったという。春らしい黄昏時の出来事であった。
胸を押しつぶされた陽子の友人は、その夜遅く、隣町の病院で息を引き取った。豪雪地帯ゆえの悲劇であった。
町中がショックを受けたこの事件が、陽子にとってどれほどのものであったか・・・・! けれど彼女は一人で泣いて、一人で耐えたことだろう。その後、陽子は前にも増して寂しい子になった。決して自分から人の中に入っていくことはなかった。級友も又、彼女には干渉しないような不文律ができあがっていた。
時に、級友たちの雑談の中に彼女の名があがることもあった。陽子を変人扱いしての話題である。しかし、達也のように家の事情をよく知る者には、彼女がこうなったのも、ごく当然のように思われたのである。
そんな思い出もあって、東京に出てきたばかりの陽子がこの大都会で多くの友人を作り陽気に暮らしているなどとは、とうてい考えられないばかりか、一人の話し相手すらいないのではないかと達也には思えるのである。それほどに陽子の手紙には不自然な陽気さがあり、逆にその筆者の寂しさを際立たせる結果となっていた。
達也はそんな陽子の事が気がかりになってしかたなかった。手紙を受け取ったその晩に、また手紙を書いた。今度は特に彼女の近況など報せてくれるよう、さりげなく頼んだ。
次の返事には一週間かかった。前の時の様にすぐ返事の来ないことが、達也を妙に苛立たせていた。
陽子を思うとき、達也の胸の内にはいつも漠然とした不安がつきまとっていた。けれどもその正体は分からなかった。
ようやく受け取った返事は、しかし、達也の期待を裏切るものだった。「私は元気です。忙しい日々ですが変わったことはありません・・・・」などと、まるで意識して達也の気持ちの裏をかくような内容であった。愚痴っぽいことや、不平がましいことは一文字として書かれていなかった。
達也は迷ってしまった。陽子の生活が良い状態でないことは間違いないことのように思われた。陽子が苦しんでいるなら力になってあげたい。けれど今度の手紙では、まるでそれを拒むかのようにも感じ取られる。
もう一度、今度ははっきりと問いただそうか。それとも、このままそっとしておこうか・・・・・・・・・
達也は、それからしばらくの間、陽子のことを迷いながら過ごした。が、そのうち学校のことが忙しくなったりして次第に彼女のことは頭の中から遠のいていったのであった。
やがて、梅雨の季節となった。
ここ三日ほど空はぐずついている。
達也はその日、昼近くに目を覚まし、窓を開けてぼんやりと横になったまま、かすかな雨音に耳を傾けていた。世間の人は梅雨を嫌うけれど達也はこのような日には何となく心が落ちついて好きであった。新緑の香を微かに乗せて空気は暖かく、夏の訪れを予感させる。雨空も重苦しい気配はなく、陽気にさえ見える。その空から細かい雨が真っ直ぐに降りてくる。それは非常な柔らかさで、まだほんのりと赤みを残すバラの新しい葉に水滴を結ぶ。あるいは音もなく達也の部屋のガラス窓をたたき、そして伝わって流れていく。そんな雨に包まれた街は、まるで水底にあるかのように揺らめいて見えるのである。
暖かな雨の風景をながめているうち、達也は「今ごろどうしてるだろ・・・」と自然と陽子のことを思っていた。
と、ドアの向こうで、かすかな乾いた音がした。気のせいかといぶかりながらも彼は起き上がってドアを開けた。足元に見覚えのある水色の封筒が落ちていた。
思いがけなく届いた陽子の手紙には達也の誕生祝いの言葉が記してあった。そういえば彼はつい最近二十歳になったばかりだった。別に特別なことではないと割り切って考えようとしたけれど、実際には複雑な心境で十代に別れを告げたのだった。
陽子が達也の誕生日を覚えていたことを意外に思いながらも、その真心のこもった文面に心がなごんだ。そういえば陽子もあと一月足らずで成人のはず。彼女の手紙は平凡な気候の話や、健康に気をつけて、とかあれこれ書いたあとで、最後に「淋しいから手紙ちょうだい。」と結んであった。達也はすぐにペンを取り出し、その日の夕方、封筒をポストに入れたのだった。こうして二人の文通が始まった。
達也のまわりの何もかもが足早に通り過ぎて行く。大学の新鮮さもいつしかカビが生えてきた。身近な友人で、この世を去っていった者さえ幾人かあった。何よりも『時』が達也には追いつけない速さで駆け抜けて行く。彼にはその後ろ姿が見えていても決して追いつけない。為す術がないのであった。
盆に帰省した陽子に故郷で会うまでに十数回のやり取りがあった。会おうと思えば東京でいくらでも会うことができたはずだった。しかしなぜか互いに遠慮するようなところがあって、一度も顔を合わさずにいたのだった。手紙における話題はごく軽い、明るいものがほとんどで達也にとっては単調な生活のアクセント、潤いとでも言えるものであった。
二人が顔を合わせたのは八月の十五日、盆のさなかに行われた成人式の会場であった。典型的な農村である二人の故郷は、例に漏れず過疎の町であった。学校を終えた若者の多くは県外に出てしまう。正月は雪のため足元が悪すぎ、皆が楽に一堂に会することが出来るのはこの時期しかないのであった。
この年、達也たちは母校の体育館の式典に招かれた。数年会うことのなかった懐かしい顔が続々と集まってきた。広い体育館のあちらこちらで談笑する声があがっていた。
達也もまた、久しぶりに会った友人達と
その変容ぶりを互いに冷やかしながら言葉を交わしていた。そうしながらも彼は来ているはずの陽子の姿を目で探していたのだった。
先に見つけたのは陽子であった。達也がふと一人になった時、背後で彼の名を呼ぶ声がした。その細く低い声に振り返った時、達也は唖然とした。
確かに陽子であった。しかし、その姿は正月に会った時に比べ、あまりに痩せ細っていたのである。
「ど・・・どうしたんだい、そんなに痩せてしまって・・・」
達也はあいさつもそこそこに言った。
「別に・・・ちょっと夏風邪ひいちゃって、それでね・・・」
「いくらなんでも、風邪くらいでそんな・・・!」
「ほら、もう始まるわよ。」
さらにもの問いたげな様子の達也に、陽子は話をはぐらかしてしまった。
皆、ぞろぞろと用意された席に着き始めていた。先に歩き出した陽子の後を、達也は呆然とした面持ちでついて行った。
次の晩、 達也は陽子を自宅に招いた。今日こそ彼女の「秘密」を聞き出すつもりだった。
彼女は九時半頃やってきた。
「こんばんは。随分にぎやかだわね。」
紺地に白っぽい花を染め抜いた浴衣がよく似合っていた。
「ああ、親父の兄弟が家族連れで来てるんだよ。もう大分飲んで良い気分になってるからな。さあ、上がって。二階の座敷が空いているから、そこに行こう。」
達也は言った。
その時、大柄な彼の母親が現れ、おやまあ! 陽子ちゃん、久しぶりだねえ! 成人おめでとう・・・・などと、にぎやかに言った。けれども昔の面影と随分変わってしまった彼女の姿に、やはり驚いた風であった。達也は根堀り葉堀り尋ねたそうな母親を見て、それを遮るように、ビールでも頼むよ、そう言い置いて二階へと陽子を促した。
「お邪魔します。」
と言いながら彼女は達也の後をついて階段を昇っていった。
二人が炬燵に座り込むと、すぐに母がビールを二本と枝豆を皿に山盛りにして持ってきてくれた。
「二人とも、もう大人になったんだねえ。何もないけど、ゆっくりしていってね・・・・」
そう言って、また忙しそうに階下へと降りていった。
「いいお母さんね。わたし、母がいないからうらやましいわ・・・」
陽子はしみじみと言う。達也は黙ってビールをついでやった。遠くからときおり風に乗って盆踊りの太鼓の音が聞こえてくる。
「なにはともあれ、成人おめでとう。乾杯しようよ。」
二人はコップを軽く合わせた。陽子は意外にも、うまそうに一息で飲み干した。
「あれ、だいぶイケるんだね。」
達也は内心驚きながら冷やかすように言った。陽子はポッと赤くなりながら、だって会社でなにかと飲む機会が多いんだもの、と首をすくめた。達也は微笑みながら二杯目をついでやった。それを見て、陽子は彼の手からビンを取り上げ、つがせてよ、と言いながら慣れた手つきで達也のコップに注いだ。社会人なんだな、という実感が彼のコップを満たしていった。
それからしばらくは、文通で話題になったことや、大学生活のこと、子どもの頃の思い出話などを言葉少なに語り合った。やがて、チビチビと飲んでいたビールの二本目も空になりかけた自分、顔を火照らせて陽子は言った。
「本当にこんなに気分が良くなったのは初めてよ。私ね、実をいうとね、一人でもよく飲むのよ。アパートで。一人っきりで、ね。安いワインなんか、たまに買ってきて・・・・・」
酔いがまわるにつれて、陽子は次第に口数が多くなってきた。達也もいくらか顔を赤くしていたが、まだ冷静であった。
陽子はホッとかすかなため息をついた後で続けた。
「でもね、全然おいしくないの。あたし、お酒をおいしいって思って飲んだことはないわ。たっちゃん、自炊してんだから分かるでしょ? 一人ぽっちじゃあねえ・・・・」
達也は頷いた。
「一人のお酒って、わびしいわ・・・」
陽子は口をつぐんだ。短い沈黙があった。
「いったい、どんな時飲むの?」
達也はさりげなく尋ねた。陽子は、
「あたしね、不眠症って言うのかしら、時々眠れなくなるの。そんなとき・・・・」
物憂さそうに答えた。
「それだけ?・・・・」
達也はさらに追い討ちをかけてみた。しばらく遠くの太鼓の音に耳を澄ませていた後で、陽子はとぎれとぎれに語り始めた。
「あのね、とっても寂しくなるのよ。とっても! それから不安になるの。まるであたしだけ、山の中に置き去りにされたみたいに・・・。つらいの、耐えられなくなるの。最近、特にひどいのよ。寂しくて、不安で怖くて・・・ 眠れなくなって。信じられないかもしれないけどね、この真夏でもブルブル震えていることもあるの、あたし・・・・」
まるで堰を切ったかのように、陽子の口から悲痛な告白がほとばしり出た。
「そんな日が週に一度、それが三日に一度になって・・・ それでいつしかお酒飲むようになった。その上、この頃食事もおいしくないの・・・・」
そこまで話した時、青ざめて、じっと動かずに聞いていた達也を気遣ってか、彼女は明るい調子で付け加えた。
「やだ、飲む、ったってもね、一升もガブガブ飲むわけじゃないよ。小さなグラスにワインを2、3杯かな。あたし、アルコールそれほど強い体質じゃないから、幸い。すぐに眠くなるのよ。それに・・・・ 」
ちょっと言葉が途切れた。
「それにね、達也君から手紙もらうようになってからは大分落ち着いてきたの。ほんとうに感謝してるわ。」
そういって、ぺこりと頭を下げた。
達也はその様子に思わず吹き出して、残り少なくなったビールを彼女のグラスに注いでやった。
だいたい推測していたこととはいえ、陽子がこれほど落ち込んだ状態とは思っていなかった。彼は陽子の告白に圧倒されてしまい、どう言ったらいいのか、しばらくは言葉が出なかった。それで席をはずし、階下へ新しいビールを取りに降りていった。
盆踊りの終了を告げる太鼓の連打が夏の夜の深まりを教えていた。もう十一時を回ったころだろうか。蚊取り線香の煙が若い女の香りをかすかにのせて、妙に明るい蛍光灯の下を漂っていた。
「ああ、いい気持ち。だいぶ酔っぱらっちゃったわね。もう踊りも終わったのね。そろそろおいとましなくちゃ・・・・ ねえ、よかったら散歩に出ない? ちょっと涼みたくなったわ。」
陽子は炬燵の横に投げ出した脚を組み替えながら言った。
「え? そうだね、ちょうとビールも空になったし。」
そういって達也は立ち上がった。
階下の座敷は、まだ賑やかであった。
裏山の麓にある寺の広い境内は、ついさっきまで人々が踊りに酔いしれていたとは信じられないほどあっけらかんとしていた。踊りの輪の中心であったヤグラが呆けたように、うっすらと闇の中に浮かび上がっていた。そこから八方に連なっている電球の入った数百個の提灯の灯りも今は消され、いつも通りにそこらに点在する裸電球だけが十個あまり侘びしげに散らばっていた。
そのうちの一個の灯りに照らし出されている石段に二人は腰を下ろした。苔むした、ひんやりとした石の感触がほてった体に心地良かった。
「だれもいないわね・・・・」
「だあれも、いない・・・」
「私たちも踊ればよかったね。明日の晩はきましょうよ。わたし、お祭の雰囲気って大好きだわ。みんながみーんな、楽しそうな顔してるでしょ? みんなが幸せそうな様子じゃない? それを見てると私もウキウキしてくるの。頭がぽうっとしてきてね。あたりがキラキラしてくるのよ。まるで酔ったようになるのよ。でもアルコールみたいに不快な感じは少しもないの。」
陽子は夢見るように言った。達也もまったく同感であった。
「それじゃ、お前も気取ったレストランなんかよりは賑やかなデパートの大食堂の方が好きなんだろう。」
彼は笑いながらそう言った。
「そうよ。」
と彼女も笑った。
そして笑いのおさまった後、
「わたしってふしだらな女よね・・・ 二十歳前からお酒に頼ったりして。それで自分をごまかそうとしたりして・・・・・ でもね、別に好きでも飲むんじゃないのよ。それは達也くんだけは分かってほしい・・・」
まるで哀願するようだった。
達也は驚いた。
「なにがふしだらなもんか。誰がそんなこと思うもんか。・・・なあ、陽子。お前、自分に厳しすぎるんじゃないか? 昔からそうだったな・・・ 人に甘えるってことしない、しっかりした子だった。宿題はきっちりやってくるし、掃除当番だってサボったことはないだろ? そういえばこんなことあったっけ。四十度近い熱出してたくせに学校に来てたことがあったな。三時間目に倒れてしまって大騒ぎしたもんだ。先生が、なぜ休まなかった? ってきいたら、学級の日直当番だから、って答えたそうじゃないか。」
達也はそう言って陽子をみた。彼女はうつむいて恥ずかしそうに笑っていた。
「そういえば、今日の式に岡田先生来てたわね。」
陽子は、ふと思い出して言う。岡田とは中学時代の担任であった中年の女教師である。厳しかったけれど、生徒の信望の厚い教師だった。
「懐かしかったわ。とってもいい先生だった。わたし、家の事までお世話になったの。とても心配してくれたわ。わたしが高校行けたのも先生のおかげ。きのう話していたら涙出ちゃった。」
昨日の成人式で岡田先生は挨拶したのである。
「どうか、遠くにいても、このふるさとのことは忘れないでほしい・・・」
最後にそう結んだ。達也がそのことをいうと、陽子は、
「わたしもそう思うわ。何か辛いことがあっても、わたしには帰る所がある、そこにはわたしのこと心から心配してくれる家族がいる、暖かい声をかけてくれる町の人々がいる、そう思うだけで、どれほど心の支えになったかしれないわ・・・・・」
瞳を月明かりにきらりとさせて彼女は言った。達也はうなづいた。
「離れてみて、はじめて本当にそれが分かるんだね・・・」
一匹の蛍が、ふたりの前をゆらゆらと通り過ぎてゆく。
「なあ、陽子。」
達也は思い切って尋ねた。
「お前のその辛いことって何なのか、話してくれないか。おれはそんなに痩せてしまったお前がひどく心配なんだよ。一人で悩むのはよくないよ。おれが何の役にも立てなくても、誰かに打ち明けてみるだけでも大分違うんじゃないか? それとも・・・・おれじゃだめかい?・・・・」
達也はできるだけ誠実さを込めて言った。
陽子は驚いたように彼の顔をみつめた。そして、しばらく膝の上に組んだ指を眺めていたが、やがてポツリポツリと話し始めた。
「別に特別なことじゃないのよ。他人が聞いてもおもしろい話じゃないし、・・・」
「他人にはささいなことでも、本人にとっては大変なことってあるものさ。少しはわかるつもりだよ・・・」
陽子は彼の目をみつめ、ありがとう、とほほえみながら答えた。
「わたし、泣き言いわないって決めてるの。でも、今夜だけ言わしてもらおうかな。恥ずかしい話なんだけど、職場がとってもつらいの・・・」
彼女は顔を伏せた。達也は、やはり、と思った。
彼女はその会社では一番若く、また
同年輩の同僚がいないのだという。そのせいか、細々した雑用に使われることが多く、自分の仕事に打ち込めない。彼女の上司は中年の女性だが、冷淡で口やかましいばかりだという。けれども、陽子にとっては、これらの仕事上の不満というよりは、そういった日々のもやもやを語り合い、発散しあう友人のいないことのほうが辛かったようである。決して人当たりの悪い人間ではなかったけれど、田舎から出たばかりの大都会は、彼女の何事にも控えめな性質とはあまりにかけ離れた世界のようであった。もとより口数の少ない陽子は、さらに黙り込むようになっていった。そして必然的に彼女は孤立してしまったのであった。学生時代の友人との交わりもほとんどないらしかった。
だが、いかにも雪国の女性らしい魅力にあふれている陽子に甘い言葉で近づいてくる男も何人かいたらしかった。彼らの下卑た下心に深く傷つけられたであろうことを、達也はその話し振りから充分感じ取ったけれど、そのことを追求することはなぜかはばかられた。彼にとっても、あまりに苦しいことであったのである。
言葉少なに語り終えて、陽子は口をつぐんだ。聴き終えた達也もまた沈黙し思いにふけっていた。
こういう苦しみを、またこの子は一人で耐えてきたんだろう。人一倍親思いの彼女のことだ、めっきり老けこんできた、あの父親に相談することもなかっただろう。けれど、あの親父には彼女の心持は何も聞かなくても分かっているに違いない・・・・
達也は、何も言わないまま互いの身の上を案じあう父子の姿を思った。それはなんとも哀しい情景に感じられた。
達也は、うつむいたままの陽子に何も言えなかった。なるほど、彼女の話はもの好きな人間の好奇心を満たすようなものではなく、ごくありふれた悩みであるかもしれない。実際、達也は似たような話は他の同級生からも何度か聞かされたことがある。
言ってみろよ、などと促したわりに、この手の話は学生の身の達也には知らない世界の話である。軽々しいなぐさめやアドバイスなど無意味なものであることくらい彼でも分かっている。やはり沈黙するしかないのであった。
「・・・・・・・大変なんだね・・・・」
達也は、自分の無力さに今さらながら呆れ果てて、ため息まじりにやっと言った。
しんと静まり返った境内に、二人の沈黙を破るものは何もなかった。自分の息遣いだけが聞こえていた。
が、やがて陽子がまた口を開いた。
「わたし、初めてのお給料でね、弟の竹夫にギター買ってあげたのよ。わりと高いのね。それ買ったら予算が足りなくなっちゃってね、お父さんには腹巻と靴下二足しかあげられなかったの。」
ふふっと笑いながら彼女は洗いざらした髪を掌でさすった。
「お父さんも苦笑いしてたけど、でも喜んでくれたらしい。もう変人なんだから、ありがとうの一言もいわないのよ。竹夫なんか当たり前のような顔で受け取るんだから。でもね、今のわたしには二人に喜んでもらうのが一番うれしいの。」
陽子の声は弾んできた。
「竹夫君は確か高校一年だったかな。だいぶ男らしくなってきたじゃないか。よくお店の手伝いしてるようだし、学校の成績もいいそうじゃないか。」
達也は昼間ふと見かけた自転車に乗った竹夫を思い出しながら言った。
「そりゃあ、少しはやってくれないとこまるわよ。みんな苦労してるんだもの。でも、今遊びたい盛りでしょう。だんだんわたし達のいうことに耳を貸さなくなっていくわ・・・・・」
陽子は遠くを見るようにして言った。
「わたしのあの年頃は一番つらい時期だったわ。百合ちゃんの事件がショックで二年ほどおかしな状態だった・・・・・」
『百合ちゃん』とは、あの春の黄昏時にトラックと雪の壁に押しつぶされて死んだ、陽子の唯一の親友の名である。
「今でもよく思い出すわ。わたしね、百合ちゃんが事故に合ったちょうどその時間に悲鳴を聞いたのよ。わたしが夕飯の支度をしていると、突然耳元で『陽ちゃーん!』ってものすごい声で・・・・・・」
陽子は呼吸を整えた。
「わたし、その時、確かにはっきり聞いたわ。それできっと百合ちゃんの身に何か起こったってすぐ分かった。それで慌てて彼女の家に飛んでいったら、百合ちゃんのお母さんはもう病院に行ってたわ。沈みかけた夕日が、まだ残雪で真っ白な東の山々を赤くきれいに染めてた。ほんとうにきれいな春のゆうぐれ・・・・」
何かに魅入られたかのように陽子は続ける。
「百合ちゃんはお父さんがいなかったの。それがね、不思議なことにね、百合ちゃんのお父さんも百合ちゃんと同じような事故で亡くなっているの。彼女の六つの時だって。やっぱり春先の夕方、除雪のロータリー車に巻き込まれて・・・・百合ちゃん、辛そうに話してくれたことがあった。わたし達、同じような身の上だったから気が合ったのね。もっともわたしの母は竹夫を産んだ後の肥立ちが悪かったせいだけど。百合ちゃんもお母さんと苦労したらしいわ。わたし達、お互い励ましあっていたの。サン=テグジュペリの作品の中で『愛し合うということは、お互いの顔をみつめ合うことではなく、同じ目標を一緒にみて進むことだ』って、そんな一節があったけど、わたし達の友情ってそんなものだったって思ってる。・・・・まさかあんな死に方するなんて・・・・・それもお父さんと同じような・・・・・・」
陽子は一粒涙をこぼした。
「ねえ、偶然ってことなのかしら? ただの偶然なの? わたしには『偶然、すなわち必然』って思えることがよくあるの。」
陽子は救いを求めるかのような目で達也をみつめた。
「それを人は『運命』って名づけたんだろうね・・・・」
達也はぼそりと呟いた。陽子は黙ってうなずいた。
少し間をおいて彼は、
「よく小説なんか、読むのかい?」
そう話題を変えた。陽子は恥ずかしそうにうつむいて、
「時間があるときは、ね。・・・・小説だけでなく、評論や法律とか科学の専門書だって読むのよ。」
そう、思いがけないことを言う。
「本が好き、というより勉強がしたいの。ただ与えられた単調な仕事して給料もらって、・・・・それだけじゃ耐えられないわ。だからアパートに帰ったらできるだけ本読むことにしているの。よく分かんないことが多いけど、でもね、そうしていると安心なの。本に慰められるっていうか、・・・・・・でも初めのうちはそうだったけど、最近少しおかしいわ。淋しくて不安でしょうがないの・・・・・・・・」
急にまた沈んだ調子となり陽子は黙った。
点々とまばらに灯る裸電球の弱々しい灯りがいっそうわびしかった。
達也には、陽子の精神の美質がことごとく彼女の幸福のさまたげになっているような気がして仕方なかった。この強い向上心も、いかにも越後人らしい忍耐力や素朴な正直さも、そして繊細な神経も、すべてが今の彼女を苦しめ傷つける要素となってしまっているのではないか・・・・・・・
そう考えた瞬間、彼は突然、不気味な、正体不明の不安に襲われ、身を震わせた。
「なあ、陽子。お前に東京は合わないんじゃないか?
そのことはお前自身が一番よく知ってるはずだろう。そんな苦労してまで、なぜ頑張らなくちゃいけないんだろう? それがおれには分からない。こっちへ戻っておいでよ。親父さんから頑張ってもらって仕事見つけてもらえよ。きっとお前は途中で逃げ出すのは、なんて言うだろうけどさ・・・・・」
こんなことを言っても陽子の性格の前にはどうにもならないことに気付き、達也は黙り込んだ。そして再び自分の無力さにさいなまれ、つくづく腹立たしく思った。
「心配してくれてありがとう。いい友達ができて本当にうれしいわ・・・でも、わたし、もう少しがんばってみるつもり・・・・」
そう言って陽子は、ブルッと体を震わせた。夜気が冷たくなっていた。
「肌寒くなってきたね。そろそろ帰ろうか。」
陽子は、ええ、と答え腰を上げた。もうすぐ二時になろうかという頃であった。達也も立ち上がって、自然と陽子の手を取って歩き始めた。
歩きながら陽子はまた百合のことを話し始めた。
「あれは中学の二年の時だったかしら。そう、彼女の亡くなる一年前のこと。春休みの天気のいい日。大川の土手を二人で散歩していたの。ほんとに春らしいポカポカ陽気の暖かな日だったわ。土手も河原もまだ雪が残っていたの。だけどもう大分しまった雪でしょ、あの頃は。わたし達が乗っても埋まりはしない。天気は良いし、どこでも自由に歩けるし、なんだか楽しくて、こうやって手をつないで、どんどん歩いたの。歌なんか歌ったりして。そのうちにね、河原の岸辺で百合ちゃんが魚を一匹見つけたの。小さなハヤだったわ。それがね、白い腹を見せて逆さに岸の近くで浮いてたのよ。ネコヤナギの芽の下だった。それを見てね、百合ちゃん突然シクシク泣き出したのよ。わたし驚いて、どうしたの? 目に何か入ったの? って聞いたのよ。そしたらね、『だって、こんなきれいな春に死んでゆくなんて、あんまりにかわいそうだわ・・・』って。よく見ると魚のしっぽはまだ微かに動いていたわ。わたしもなんだか哀しくなって・・・・・ 百合ちゃんがまた、『春って残酷なのね』って言ったの。二入ともちょっとませてたのね。でも、本当に悲しくて二人でしばらく泣いたのよ・・・・・」
達也に気を許したせいであろうか、それとも夜の魔力に犯されたのかもしれない、陽子はいくらか感傷的になっていた。
しかし達也もまたそういった思いに空しくなることがたびたびあった。彼は陽子の話に手短かに返事しながら再び湧きあがってきた彼女の身の上への黒い不安のために、次第に物思いに沈んでいった。
まったくの静寂が町を満たしていた。その中を陽子の下駄の軽い音だけが響いていた。うす暗い街灯の光は夜の闇の中に消え入りそうに思われた。やがて見えてきた陽子の家も、ひっそりとその粗末な体を休めていた。
「それじゃ、おやすみなさい。今日はどうもありがとう。また手紙ちょうだいね。」
「ああ、お休み・・・・頑張るのはいいけど無理しないでくれよな・・・」
返事のかわりに陽子は彼の顔を見つめながらつないでいた手を軽く握りしめた。達也は突然胸の中がじんと熱くなるのを感じた。彼はおもわず陽子の頭を抱き寄せると髪に口づけした。陽子は少し驚いたが動揺する様子もなく、ありがとう、と小声でつぶやき真っ暗な家の中へと消えていった。髪の香りを残して、その後ろ姿が揺らめいていた。
二日後、陽子は東京に帰った。それから半月ほど後、達也は九月上旬に帰京した。久しぶりのアパートで彼を待っていたのは、例の水色の封筒であった。日付はそれほど古くはなかった。
陽子の手紙は、まずあの夜の礼が書かれていた。そして、その後の東京の生活が以前に比べて大分落ち着いてきたこと、またいつか会いたいというようなことが明るい調子で書かれていた。けれど達也は前と違って文面をそのまま信じ込むことができなかった。事実その筆跡にすがりつくような思いがどことなく感じられるような気がした。
達也はすぐに返事を出した。その中で、彼もまた会いたい旨を記しておいた。
たびたび二人が会うようになったのはそれからであった。陽子の希望もあって賑やかな場所よりは美術館や音楽会に行ったりと、達也にとっても有意義な所へ出かけることが多かった。そんな時、陽子は瞳を輝かせて生き生きとしているようであった。そんな彼女の様子に達也はいくらか安心するのだった。
達也と会うようになったせいかどうかは分からないが、夏に会った時にくらべ陽子は幾分ふとったような気がした。彼女自身、近頃よく食べるようにもなったと、彼に感謝するように言ったこともあった。
しかし、彼女にとって現実の様々な問題が解決したわけではないようであった。何度も会ううちにときおり愚痴めいた言葉がきかれた。それらは盆に会ったとき聞いた内容とあまり変わっていなかった。達也のような世間知らずにはどうにもならない現実に、達也は歯がゆくてたびたび苦しんだ。しかしそんな彼の様子をみて、陽子は、聞いてくれるだけでうれしいのよ、とほほ笑んでみせた。達也はそれで逆に慰められるのであった。
陽子の、芸術や学問的な分野への興味は相当強いものであった。達也の部屋へ遊びにきたこともあったが、その時など書棚をなめるようにしばらく見ていた。または大学での講義の内容などしきりに聞きたがった。不勉強な彼には、これにはホトホト参ってしまった。
ある日、柳田の『遠野物語』を貸してやった後、感想を夢見るように語った。山々に囲まれて育った二人には、民話や昔話の世界が郷愁とも重なり合って楽しかったのである。
「ねえ、昔はさかんに『神隠し』ってあったでしょ? 子どもや若い女性なんかがフッといなくなるのは黄昏時が多いんだって。あたりが入り日に黄金色に輝くような時に、何者かが連れ去ってしまうんだって。不気味な話よね・・・・でも、妙にロマンティックだと思わない? そういえば百合ちゃんもそんな時に逝っちゃったんだなあ・・・・」
ある日、彼女はこんなことを言い出した。それを聞いて達也はある出来事を思い出した。夕暮れ時とは実際不思議な力をもっているようだ。達也にも経験があった。
あれは、彼が中学三年の時のこと。夏休みも終わる頃だった。彼は幼なじみの友人と、夕方まだ明るいうちにふと外に出た。ぶらぶらと話をしながら歩いているうちに、自然と足が裏山へと向かっていた。人一人がやっと通れるほどの獣道のような所を、二人はついつい時間を忘れ、それから二時間ほど、奥へ奥へと入っていったのだ。
やっと戻る気になったのは、山を二つも越えてあたりの暗さに気がついた時。山里に出ていて、田んぼ仕事をしているおばさんに時間を聞いたら、もう六時半だよ、いったいどこからきたね、ここは・・・・と教えてくれた。隣の隣町の外れであった。
二人は慌てて逆戻りを始めた。ところが道のりの半分も歩かぬうちに真っ暗になってしまった。
山の夜は恐ろしいものだった。人の気配に驚いたのか、小鳥がバサバサと飛び立ったりするが、その音すら二人の心臓を止めかねないほどの恐怖をあおるのである。
それでも二人いたから良かった。二人で恐怖心を打ち消すために学校の校歌など大声で歌って元気をつけたのであった。本当にあの時一人だったらどうなっていただろう、と今でも思う。実際に一度は道を間違えたのであった。石や草につまづきながらも、やっと家にたどりついたのは八時をまわっていた。ホッとしたのもつかの間、家には山ン婆よりも恐ろしい形相で達也の母が待っていた。今、捜索隊を出そうかと相談してたところだ、馬鹿たれ! ・・・・ 友人もこっぴどく叱られて帰ったものだ。
もう一つ、同じようなことがあった。前記のことがあった、その冬の初めの日曜のことであった。達也がこの友人の家に遊びに行っていて、やはり四時過ぎにフラッと表へ出た。曇り空の下、話し込んでいるうちに、今度は隣町に向かって歩いていた。そしてやはり大分暗くなってから帰途に着いたのだった。のんきなもので、途中腹が減ったのでラーメン屋によった。ところが帰り道は吹雪となった。二人がぶるぶると雪だるまになって友人の家にたどり着いた時には、やはり八時を過ぎていた。達也は今度は友人の両親にかなり説教されて家へ帰り、さらに自分の母親に叱りとばされた。
達也の話に笑い転げながらも、陽子は興味深そうに聞き入っていた。そして彼が話し終えると陽子はホッとため息をついて、独り言のようにつぶやいた。
「でも、本当に神様のところへ行けるのなら、幸せかもしれないわね・・・・」
しばらくは、このような交際が週に一度程度の割合で続いた。陽子の様子も大きな変化はなかった。けれど達也は会うたびに彼女の影から生気が失われていくような気がしてならなかった。彼は単なる思い過ごしだと、気にかけないように努めた。陽子はあんなに明るく笑っているじゃないか、と。今思うと、なぜ恋愛関係に発展しなかったんだろう、と不思議である。あの、盆の夜更けに彼女の髪に口付けしたことから恋がスタートしたとしても、なんの違和感もない。けれども、なぜか二人ともそういった感情にはならなかった。あまりに幼いころから知っているせいであろうか。いわば、きょうだいのような立場である二人にとっては肉親のような関係がふさわしいように無意識のうちに感じていたのだろう。またそれ以上の関係になぜか立ち入ることのできない、何かを。
いつしか秋風が立ちはじめ、やがて十一月も中旬に入った。空は次第に高くなっていき、北の方からは雪の便りも聞かれるようになった。もう、炬燵を出したという故郷からの報せも届いた。
東京の達也の部屋も朝晩冷え込むようになっってきた。そろそろストーブでも出して冬支度でも始めようかという、ある日曜の午後のことであった。
達也と陽子のささやかな物語の終幕を告げるベルが響いた。
達也が日光を浴びて窓からうろこ雲の流れるさまを眺めながら、ほのかに想いを寄せている女の子のことを考えていると、下の大家から、電話ですよ、と取次ぎがあった。急いで階下の電話口に出てみると、それは陽子であった。達也がもしもしと言い切らないうちに、彼女が息せき切って話し始めたのである。
「達也君ね? 実は今上野駅にいるの。」
陽子は努めて冷静を装うふうであった。泣き出したいのを無理にこらえているのか、変にこわばった声が小刻みに震えていた。
達也はいっぺんに緊張した。
「どうしたんだ? 何かあったのか!?」
「竹夫が、・・・竹夫が重症なの。」
陽子は次第に取り乱してきた。達也は重症ときいて驚いて、何度も聞きなおしてようやく事態を把握したのである。陽子はちょうどコインが切れた時に、そのまま列車に乗り込んだようである。
彼女の話の要約はこうである。
竹夫は日曜ということで、朝から友人のバイクの後ろに乗って、ドライブに出かけた。紅葉を見に行くと言い残していった。大分遠く、県境の峠道まで出かけたが、急カーブを曲がりきれなかった二人のバイクは転倒してしまった。運転していた友人は左手首を骨折しただけで済んだ。竹夫はヘルメットの為、即死はまぬがれたものの、ガードレールの鉄柱に頭を強打し、意識不明、今も危ない状況だというのだ。事故はちょうど正午頃だったという。
父親から報せを受けた陽子はこれから特急で帰るところであった。あまりの不安に耐え切れなくなったのだろう、駅の公衆電話からの呼び出しであった。
話の脈絡を捉えきれずに、途切れがちで話す陽子に、きっと大丈夫だ、しっかりしろよ、などとありきたりな慰めの言葉を達也は並べ立てていた。それでも、そのうちに彼女は落ち着きを取り戻し、
「それじゃ、またね。大丈夫よ、どうもありがとう・・・・」
といううちに、コインが切れたのであった。
達也の前でこれほど陽子が取り乱したことは無かった。彼には竹夫のこともさりながら、陽子の方が心配に思えのだった。
その夜、達也は自宅に電話をかけて、竹夫の事故について尋ねた。案の定、耳の早い母親は詳しい事情をすでに知っていた。それによると竹夫は四時を過ぎた頃、息を引き取ったとのことであった。
「あそこのうちは、ほんに運のないうちだ・・・」
母は電話を切る間際にポツリと言った。
達也はそれから一週間ほど陽子のことばかり、あれこれと想っていた。母の言った「運のない・・・」という一言が妙に実感をもって彼の胸のうちをさまよっていた。
いかに二十歳とはいえ、まだほとんど化粧を施さぬ赤い頬をした陽子にとって、彼女の人生の入り口はあまりに狭く、暗すぎると思った。その、小柄でやせ細った肩に課せられた荷はあまりに重過ぎるとも思えた。
それらは決して陽子だけに課せられた不幸ではなかろう。だれもが何らかで苦しみ、またもっと大きな不幸に悩むことはあるだろう。しかし、それにしても・・・・・
そう思ったとき、達也は生き抜くという事、それ自体の厳しさの前に改めて恐れと不安を抱くのであった。
十一月も末近い頃、その日は朝から小雨のしのつく肌寒い日であった。昼近くになってから、達也の父から電話がかかってきた。
その報せは達也を愕然とさせるものであった。
「一昨日のこと、八百屋の陽子がいなくなった。今もまだ行方不明で捜索が続いている。実は最近仲が良かったお前に、警察の方で聞きたいことがあるそうだ。至急帰ってこい。詳しいことは帰ってから話す。・・・・」
父はそう言った後、返事のできないでいる達也に、分かったのか! と怒鳴った。彼は、ああ、と空ろに答えて受話器を置いた。竹夫が死んでから八日目の晩であった。
その日の午後に、達也は急行に飛び乗った。列車の中では彼はただ混乱していた。いったい何が起きたのか。とにかく今分かっていることは陽子が行方不明だということのみである。
思いがけない帰郷となった。ふるさとは晩秋の装いであった。薄曇りの空の下、山々を見渡すと、高い山のいただきは既に雪をいただいている。紅葉の盛りを過ぎたとはいえ、欅や銀杏、その他の様々な木の葉が退屈な街に彩りを添えていた。駅通りはいつものとおり、ひっそりとしていて人影はほとんどない。二、三人の客に混じって達也は改札口を出て、枯葉の舞う中を自宅へと急いだ。
父と妹はそれぞれ職場と学校に行っていて、もう五十に近い太った母が一人、達也のための昼食を用意して待っていた。達也は炬燵に入り漬物をおかずに温かい飯を食べながら一切のあらましを、この母から聞いたのだった。
彼女は長い物語を始めた。
「実はね、おまえに余計な心配させねえように、と報せないでおいたんだがね、夕べ警察の人が来ておまえが陽子ちゃんと親しかったそうだから話が聞きたいっていうもんでな、それで呼んだんだよ。そりゃ、町中大騒ぎだよ。消防や警察だけでは足りねくて、町の男衆も総出で山狩りしてるんだあ・・・・ そうしてまで探してまわっているんだが、めっからねえんだ・・・・・」
達也は初めから詳しく話してくれるように頼んだ。母は茶を注ぎ、一息ついた後で
「おらも聞いた話ししか知らんけども・・・」
前置きして、ズッと一口すすった。
「竹夫が死んでしまって、通夜の晩は特に変わったことはなかったそうだよ。あんまり喋らなかったそうだがナ、手際よく客の接待やら何やらやっていたと。親類の母ちゃん衆が手伝いに何人か行っていて、ホラ、すぐそこの弥助ドンの母ちゃんも、あのうちと縁続きだから手伝いに行ってたんだよ。あのひとが昨日お茶のみにきて、いろいろ聞かせてくれたんだよ。
弥助ドンとは、達也の家のはす向かいにある農家の屋号である。
「あのかあちゃんが言うには、あの子がおかしくなったのは葬式の日の晩だったと。」
『おかしくなった』と聞いて達也は背中がぞっとした。
「葬式が終わってから親類縁者が集まって、おまえは知らんだろうけど、壇払いって言って、まあ、ご苦労さん会をしるんだ。陽子ちゃんは台所で女衆とこまめに料理やら酒の燗やらしていたそうな。座敷の客たちは、初めのうちは静かに飲み食いしていたそうだが、そのうちに酔いがまわってきて、よくしゃべるようになった。本家の爺様なんか、普段から声がでけえが、やれ竹夫は若いのになんてこった、とか、運が悪いうちだ、とか、今のわけえ連中は無鉄砲だから・・・・などと言い始めて、ま、歌や踊りこそなかったものの、座が賑やかになってきたんだと。そうして、かれこれ七時をまわったかな、と思う頃に、ふっと陽子ちゃんの姿が台所から見えんくなったと。宴も盛り、台所はてんてこまいなのに、・・・・酒も切れたので酒屋に注文していいかと弥助ドンの母ちゃんが聞こうと思って探したんだと。」
達也の母はここで急に声をひそめた。彼は箸をもったまま動かずに、聞き入っていた。
「どこにいったんだろう、ああいた、と思ったら座敷のふすまをちょうど開けて入るところだった。
中にいた人に聞いたら、急にふすまが開いたと思ったら陽子ちゃんがニコニコ笑って立ってたんだって。客たちはなんか変な気がして黙ってしまってあの子の顔を眺めていたら、『みなさん、賑やかですね。今日は何のお集まりですか?』って、やっぱりニッコニッコしながら言ったんだとさぁ・・・・・」
母はそばにあった手ぬぐいで目頭をぬぐった。達也は箸を置いた。彼には今ようやく分かった。あの、年の暮れの帰省列車で再会した時、或いはお盆の夜、そしてさらにその後会うたびに感じた、あの漠然とした黒い不安の正体が・・・・・
達也には、何かのきっかけでこういう結末が陽子に訪れるのではあるまいかと漠然と感じられたのだった。しかし、彼は恐れから無意識のうちにの予想を頭の片隅に押し込めていたのであった。それが今になってはっきりと自覚された。達也は悔やんでも悔やみきれない気持ちに満たされた。
ややして、また彼の母は続けた。
「客達はそれ聞いて、あっけにとられて、しばらくポカンとしていたと。あの本家の爺さんは『なにっておめえ・・・』といったきり腰を抜かしてしまってなあ・・・・けど、あんまり様子が変だから、そのうち皆で目配せしながら挨拶もそこそこに帰っていったと。
陽子ちゃんは、自分の脇を黙ってすり抜けていく人達を突っ立ったまま、ぼんやり眺めていたそうだ。後にはごく近しい人達ばかりが四、五人残って、とにかく陽子ちゃんを寝かしつけたという話だよ。」
母は茶を一口飲んだ。
「あの子の親父は娘の、あんまり哀れな姿を見て、情けなくて情けなくて一晩中泣きの涙だったそうだ。埼玉の兄弟が寝もしないで『きっと疲れが出たんだよ』なんて言って親父を慰めていたそうだが、その親類もどれほど泣けたかしれない、と言ってたよ。・・・・」
しかし、翌朝起きてきた陽子はいつもの彼女であったという。それみたことか、大丈夫だから、と親類は笑って帰っていったが、陽子は前の晩の出来事は覚えてなかったという。
「そうはいっても、やっぱり心配も残るって言うんで、後の世話は弥助ドンの母ちゃんがすることになったそうだ。なにぶんあすこの親父は大人しいばかりで頼りねえ人だから。それで次の日も何度も様子を見に行ったんだけど、どうもやっぱり、陽子ちゃんの具合がおかしいように思ったと。急に賑やかにしゃべりだしたかと思うと、逆に突然しくしく泣き出したり・・・
人まえじゃあ、めったに涙見せたことのない子だったのにさぁ・・・・」
達也は聞いているのが辛くなってきた。彼は急にのどの渇きを覚え、冷めた茶を一息に飲み干した。外は薄暗くなってきている。一雨きそうな雰囲気である。北風がいっそう強くなっていた。
「陽子は自分から辛いとか苦しいとか言う子じゃなかったよ。」
母は達也の空いた湯飲みに茶を注ぎながら続けた。
「そうだったなあ・・・・あの子はちんこい頃から店の手伝いやら竹夫の子守りやらして苦労して育った子だった。ほんにガマン強い子だったよ・・・だどもな、正直いって、妙に大人びているというか、子どもらしさが足りないというか、小憎らしいようなところもあったよ・・・・だいたい、あの親父が悪かったんだ。サキさんに先立たれた後で、周り中から『後妻もらえ、もらえ』って、それが子どもにとって一番いいから、とさんざ言われたのに、どうしてもいうことをきかんかった。『この子たちは俺とサキの子どもだ、他人に育てさせるわけにはいかね!』って、狂ったみたいに怒鳴ったもんだ。きれい事いったって、そのおかげで陽子が犠牲になったようなもんだと、みんな言ってた。あの親父が、陽子ちゃんをあんなように追い込んだんだよ!」
彼女は、さも憎らしげに自分の茶をグッと飲み干した。
それからどうしたの、と感情的になってきた母親に話の先を促した。
「それでな、やっぱり様子がおかしい、ってんでな、親父に『医者にみせたほうがいいんじゃないかい?』って言ってみたんだと。そしたら、しばらく考え込んでいたども、『もう二、三日様子を見る』、そんなことを言ったそうだよ。早く医者に連れていけば良かったんだ、こんなことにならんかったろうに・・・・・おらぁ、あんな父親持った陽子ちゃんが可愛そうでかわいそうで・・・・」
母はまた涙をぬぐった。
「かあさん、でもね、陽子にはあの父親と竹夫だけが生きがいだったんだよ、きっと。
それから・・・・?」
達也は少々いらだちながら言った。母親は気を取り直して続けた。
「二人がそういって相談した次の日に陽子ちゃんはいなくなった。医者に行ってたらよかったんだよ、ほんに! あの日は秋らしい天気の良い日だったなぁ。前の晩から大分冷え込んで、お山に三度目の雪が降りたんだよ。七合目まで真っ白だった。その日の昼過ぎ、ふと陽子ちゃんが見えなくなった。親父がたまげて弥助ドンまで飛んできて、そこの母ちゃんとさんざん探し回ったそうな。そのうち弥助ドンの母ちゃんがな、何気なくお寺の方へ行ってみると、ほれ、あそこの境内に、でーっこいイチョウの木が二本並んでいるだろう、陽子ちゃんはその木の下でギンナンを拾っていたんだと。それがな・・・子どもの時分に着ていたような、赤い小さな綿入れバンテン着て、それで何かつぶやきながら拾っているんだと。それで何を言っているんだろう・・・・そう思って静かに側まで行ったけど、陽子ちゃんにはそれも目に入らんようだった。それでよく耳をそばだててみるとなあ・・・・・
『おかあさん・・・ほら、ここにもあるよ・・・ また拾ったよ・・・・ 百合ちゃんにも分けてあげるんだもん、たくさん拾ってね・・・・ ほら、ここにもあったよ・・・ おかあさん・・・お母さん・・・・』
って・・・・・・・・・・」
母は、また泣き出した。こんどは手ぬぐいを顔に押しつけてしばらく声を詰まらせていた。
達也は、その情景を想っていた。
自らの内側から発光するかのような、鮮やかに黄色く色づいた二本の銀杏の大木。あたり一面は、おびただしい銀杏の落ち葉で、まるでこがね色の絨毯を敷き詰めたようである。さらに枝々からは絶え間なく扇型をした木の葉が雪のように降りかかる。その黄金の
木の葉の嵐の中、赤いちゃんちゃんこをまとった陽子が無心に銀杏の実を拾っていた。木の葉と同じ色に熟れた、さくらんぼのような双子の木の実を、陽子は夢中で懐に入れていくのである。
これは、幼い日にじっさい彼が見た光景であった。赤いちゃんちゃんこのことも良く覚えていた。幼い陽子と二人でよくぎんなんを拾いに行ったことを彼は思い出していた。
いっとき、干し物を取り込みに行った母が、寒いさむいと震えながら戻ってきた。そして炬燵に肩まで突っ込みながら、また話を続けた。
「そんな陽子ちゃんを見てて、弥助ドンの母ちゃんは薄気味悪くもあったけどな、なにしろ連れて帰らねばって想って『陽ちゃん、お父ちゃんが呼んでるから帰ろうな・・・・』そう言って手を引いてきたんだと。ああ、陽子ちゃんは大人しく言われるままについて来たそうだが・・・・ あんまり哀れで可愛そうで、あの母ちゃん、道中涙が止まらんかったって。ぎんなんも手に持てるだけ持ってきたそうな・・・・・・」
達也もなんとはなし目頭が熱くなってきた。
「その後、またいなくなったんだね・・・?」
彼はたまらない気持ちになりながらも、先を促した。
「そう。寺から連れ戻ったら三時頃だったらしい。親父と弥助ドンは方々の親類衆と電話で話し合って、とにかく次の日に隣町の県立病院の神経科に連れていくことにしたんだそうだ。陽子ちゃんは炬燵で横になっていて、どうやら寝込んだ様子だったそうだ。寒いところにいたからね・・・
それで二人とも安心したのか、弥助ドンは夕飯の支度に帰り、親父は注文の配達にひょいと出てしまったんだと・・・・・」
陽が沈み始めた頃だったという。東の、雪をかぶった山々が紅葉の色と一緒に西日を浴びて、それは綺麗な夕暮れだった、と母親はうっとり言った。
「・・・・けど、西山の麓にある、おら達の町はその頃は山の陰に入ってしまうだろう。昔からこの時刻は良くない、って言われているんだよ。そんな時に八百屋の隣の、豆腐屋のばあちゃんが、陽子ちゃんを窓越しに見かけたんだと。白っぽい寝巻きにあの綿入れを羽織ってうちの前にポツンと立っていたんだと。
『ああ、悪い時刻に表へ出てるなぁ・・・・』そう思って見てたそうだよ。五時になる頃だったろう。ばあちゃんは、あの子のことをよく知っていたから、『うちのもんは、何してるんだろ・・・』そう思いながら、とにかく寒いし、家の中に入れてあげようと思ったんだと。そうして窓を離れ玄関へ出て、ぞうりを履いて表へ出てみたら、ハア、陽子ちゃんは姿が見えなくなってたんだと。ばあちゃんは、アレ、っと思ったそうだが、おおかたうちの中にはいったんだろ、そう思いながらも一応は陽子ちゃんの親父を呼び出してみた。そうしたら家にはいないというんだ。
『ハテ! これはとられた!』 ばあちゃんはそう思ったと。それからは近所中まわって探してもらうよう頼んだ。けどみつからねえんだ。それで七時過ぎになって警察や消防に連絡したんだよ。
おおぜいで山狩りもし、隣町一帯にも通達をし、大川までも捜してみたんだども・・・・いっこうなあ・・・・・」
達也の母は深いため息をついて冷めたやかんの湯を沸かしに行った。話を聞き終えた達也は、この頃はなぜかしら、不思議と落ち着いた気分になっていた。
その晩に警察の者が来て、一通り達也に陽子とのことをあれこれと質問した。初老の、人の良さそうな刑事であった。無論、彼は何一つ隠し立てせずに話をした。後に聞いたことだが、達也の両親は彼と陽子とが深い仲になっているのではないかと密かに思っていたそうだ。それと、陽子の失踪に達也が関係しているのではないか、という心配もあったという。しかし、この晩の達也の話をわきで聞いていて、その疑いは晴れたようだ。彼はずっと後になってこの事を聞き、大笑いしたものだ。
達也は、この事件に関して何一つ役立つ情報を持ち合わせていなかった。刑事は幾分落胆した様子であった。達也と陽子が以前に神隠しのことを話し合ったことだけをメモして早々に引き上げていった。
昼間は曇り空であったけれど、夜に入って小雨が降り出したようで、ひどく冷え込む夜となった。
陽子は今どこにいるのだろう。まだ、この寒空の下をさまよい歩いているのだろうか・・・・
翌朝、達也は寒さに目覚めた。ぞくぞくしながら起き上がって、朝日でまぶしい障子を開けて、はっと驚いた。
大変早い初雪であった。
一夜にして晩秋の風景は粉砂糖をまぶしたような雪景色へと塗り替えられていた。昨日まで強風に任せて、にぎやかに木の葉を町中に振り撒いていたけやきや銀杏などの木々も、今朝はほんのわずかな雪の前に沈黙させられていた。静かな朝であった。
雪国の冬はある朝こうして突然に訪れるのである。
けれども、ごくわずかの積雪だったので、やがて昇った朝日のために、昼前にはみな消えてしまった。これはまた、あっけのないものであった。
達也には、この淡雪と共に陽子の命もまた同時に消えてしまったように感じたのだった。
なんて不吉な・・・! と自分を責めてみたが、しかし、この感情には強い悲しみは伴わなかった。不思議だ、と達也は思った。
彼は三日ほどして東京に帰った。陽子は行方の知れぬままであった。けれど彼には為すべき術は何もなかった。
季節は何事にも無頓着に過ぎてゆく。駆け足で冬は行き、春も過ぎた。そして今、夏は本番を迎えようとしていた。達也の乗った急行列車は県境のトンネルに入った。蒸し暑い車内は閑散としていた。この車輌にいるのは十人足らずだろう。通路をはさんだ隣に乗っていた若い母子は先ほどの停車駅で降りた。子どもをかまっていた中年の酔っ払いは手持ちぶさたから寝入ってしまっていた。彼らの声の消えた空疎な車内に、トンネル特有のゴーッという音が充満していた。
十四、五分経ったであろうか、突然に、まったく突然に列車は長いトンネルから吐き出された。達也は再び夜の暗やみの世界に放り出された。窓の外はほとんど夜陰に閉ざされていたが、ときおり思い出したようにポツリ、ポツリと灯りが見える。或いは誰もいないにも関わらず妙に明るすぎる無人駅が、フッと後ろに飛び去っていった。
達也は、陽子とは奇妙な関係であったと思った。何よりも恋愛感情の起こらなかったことが不思議であった。彼女のはかない生命力の、精一杯の燃焼力に圧倒されたためだろうか。あるいは彼女の属していた現実の世界そのものに恐怖したためであろうか・・・・・今でも確かなことは何も分からないままであった。
陽子もまた達也を特別に異性として意識していないようであった。彼女の欲するものは、むしろ友情であったような気がする。というより、もっと単純な意味でも「ひととのふれあい」のようであった。つまり、あまりに孤独であった。はたで見るのが痛ましいほど、
孤独であった。
しかし達也は最近思うようになった。その思いは陽子だけのものではなく、彼自身の思いでもあったのではないか、と。そしてそれは陽子に劣らぬほど強いものだったのではないかと。
一見、平和でのんびりとした学生生活を送っている達也もまた、まぎれもなく孤独だったのである。
町の灯が、こじんまりとまとまって窓の外を通り過ぎていった。
あっ!
次の瞬間、達也の口から感嘆の声が漏れた。突然まったく音もなく、この暗黒の世界に大輪の花火が開いたのである。車内のあちこちでも歓声が上がった。
最初の花火がまさに消えようとしたその瞬間、次の火の玉が、まるで墨汁の中を泳ぐかのようにヒュルヒュルと昇って行き、そして巨大に花開いた。
次々と打ち上げられる大小の花火は、その美しい面だけを見せながら、ゆっくりと後方に流れていく。
そして、その全てが無言のうちに行われていくのであった。
陽子との十ヶ月あまりは、達也にとっては、もはや甘美な哀愁に包まれた夢となっていた。
冬のあいだ痛切な哀しみに耐えかね、一時は部屋に閉じこもってしまったこともあった。それがひと月以上も続いたが、やがて春の雪解けと共にその傷は癒されていった。そして桜の季節を迎える頃、たそがれ時に消えてしまった、哀しい狂女の思い出は、彼の記憶の中にひたすら美しく沈んでいったのである。
それは達也だけでなく、陽子を知る多くの人々においても同じことであった。いつか陽子は言った。
- ・・・ほんとうに神様のところへ行けるのなら幸せかもしれない・・・・
陽子は今、短いけれども、良く生きた幸福な人間として神のふところに抱かれ、またそのけなげな姿は人々の心の中に愛らしく生きつづけていくのだろう。
達也は何度もなんどもそう思い返した。そう思わすにはとてもやり切れないものだったのである。
花火大会はやがて後方に小さくなり、そして見えなくなった。故郷の村や町は夏祭の季節を迎えていた。もうじき彼の生まれた町に到着する。短い帰省の旅は終わった。
明日は達也の町の夏祭であった。
了
初稿 昭和五十三年 十一月上旬
改稿 平成十四年十一月三十日
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