1
そこは広い牧場であった。
その中央にある家の側に沼と言ってもよい、かなりの広さの池がある。自然の泉を利用したもので、水はどこからともなく湧き、どこへともなく消えていく。大きな石に囲まれていて、ほとりには、春は水仙が黄色な花びらを水に映し美しさを競い合い、秋には萩の花が小さな花弁を水面に散らせてきた。
水中は平和であった。大小の、色とりどりの鯉たちが悠々と泳ぎ回り何も心配することなく暮らしていた。
「お恵みじゃ!」
鯉たちの中で最も太々とした黒い大将が叫んだ。朝日が射し込む頃、水面に霰のように食物が降ってきたのだ。数十匹の群れが一斉に水面に向けて口をぱっくりと開いて我先に「恵み」を吸い込んでいる。押し合い、へしあいし、みんなが十分に腹を満たす分量を「神様」は与えてくださるのに、毎日分捕り合戦をくりかえす。波立っている向こうにボーッと霞んで「神様」の姿が見える。鯉たちの二十倍もありそうなその神はどうもお一人ではないらしい。別の姿が現れたり、また、小さい神様と共にいることもある。
しかし、鯉たちにとっては神の姿はどうでもよかった。とにかく、食べ物を恵んでくださることがありがたいのであった。
食べ物となれば大人も子供もない、みな明るい興奮に包まれてはしゃぎまわる。稚魚が大きな獲物を持て余してもたもたしていれば十倍もありそうな五才ほどのやつが幼いものを蹴散らかすようにして横取りしてしまう。どうも見苦しく、さもしい情景であるが、それでも彼らは楽しく、そして幸福であった。
ただ、不満に感ずることが一つだけあった。ごく小さな神様が一人の時、分量が足らないことがある。そんな時は元気のよい、恐いもの知らずの若い鯉などは盛んに跳ねて、尻尾で水しぶきをあげて抗議することがある。
「神様、どうなってるんだい。これっぽっちじゃとてもおれ達若者には足りっこないぜ!」
しかしそんな事件もまれにおこるだけで、普段は平和な喧燥のうちに「恵み」は平らげられるのであった。
2
しかし、そんな彼らの中にもやはり外れものはいるもの。
三才になるオスのギンと呼ばれるやつはかなりの変わり者であった。ギンという名は黒い体色でありながら、その色艶がやや銀色を帯びているところからきている。このことは彼にとっては大変面倒な結果をもたらしていた。
「ギンの生まれた時は皆の衆が喜びに跳ね回ったものじゃったが…・・」
今でも年寄りたちは、ギンが問題を起こすたびにため息をついた。
というのは、鯉の世界では、何十年か何百年かに一匹、黒鯉の中に深い銀色を帯びたものが生まれ、いわばメシアのごとくに、彼らの世界に幸いをもたらしてくれるという言い伝えがあるのである。それがどんな幸であるかはだれも分からないが、とにかく大きな希望の星とされるのである。そしてそれは最後は鈍い銀光を放ちながら黒雲に包まれて昇天するのであると。
ギンが生まれた時、確かに黒色の中に深いいぶし銀のような色が見えたのである。長老はそれを見て感激にヒゲをピンと逆立てて宣言した。
「新たな英雄の誕生じゃ!」
それは星のきれいな晩のことで、鯉たちが妙に跳ね回るので「神様」たちがぞろぞろとのぞきにきたくらいであった。
しかし、長老の希望を打ち砕く結果が一年後にでたのである。一歳になるかならないかの内に希望の色彩は薄れ始め、ついには当たり前の黒鯉の幼魚になりさがってしまったのである。しかも、こいつは聖人君子などとは程遠い性格の持ち主であった。小さいうちは他の稚魚たちと行動を共にして、身の安全を図るのが常識であるが、こいつはともかく勝手な行動をとるのだった。餌をいただく時も普通のやつならば群れをなしてお恵みにむかっていく。そこへ先輩の大きな鯉が現れればみんなで即座に身を引いて譲り渡す。また、そうしないと十倍もあるような大きな尻尾やひれで容赦なく追い払われるのだ。先輩をたてて序列を守り、何事にも控えめにすごすのが小さいものたちの道徳であった。
しかし、このギンは違った。たった一匹で過ごすことが多く、他の稚魚、幼魚が春の陽気などに喜んですばしこく編隊遊泳をしたり神様からのお恵みにワーッと向かっていく時も彼はひとり、木洩れ日のようなうららかな日差しを浴びてウトウトしていたり食事も忘れて何事か考え込んでいたり……… 逆に腹がすけばたった一匹でも先輩が悠然といただいているところに平気で割り込んでいってはパクパクしようとする。当然にトラブルは起こる。初めはうるさそうに、腹びれでそっと向こうへ押しやろうとしていた成魚もやがては腹を立てて尾びれでジャボーンと払いとばしてしまうのだった。
「あんなずうずうしいガキはいないぜ!」
「まったくだ。何が希望の星なもんか。しきたりや、礼儀の一つも知りはしないやつが。」
「長老もかなり年とったというもんだな。とんだメガネ違いというもんだ。」
こんな言葉が大人たちの間で交わされるのが常であった。ボーッとして行動が鈍く仲間とも付き合えないやつ、せめてみんなの邪魔にならなければよい、これが一才のギンに与えられた評価であった。
3
さて、大人の鯉の中にも一匹、ちょっと風変わりな経歴の持ち主がいた。彼は決してみんなの迷惑になることはなかった。不快なことをしでかすわけでもなかった。ただ、静かであった。
「シンさん、もう神様のお恵みが始まっているぜ。ぼやぼやしてるとメシたべそこなってしまうよ。」
「おや、うっかりしておった……・・ ありがとうよ。」
シンとは新参者の意味である。どこかから神様が連れてきたもので、かれこれ六、七年も経つが皆がまだシンと呼ぶ。もう長老の部類に入るが他のものとは違い、彼は決して前に出ようとはしなかった。初めは新来ということで遠慮しているのだろうというふうに皆思ったが、三年経っても四年経っても彼は決してでしゃばったり、いばったりはしないできた。どこか不思議な静けさを漂わせ、時には何者をも寄せ付けない威厳を感じることもあった。
しかし、彼は誰をも傷つけることがなかったので、みんなは、ちょっと変わり者というように納得し、そしてほおっておいた。
「シンのおじちゃんはよそからきたんだって?」
「そんなことは知らんね。」
初めてこの事を耳にした若い鯉たちが大人に尋ねることが時たまある。しかし、大人たちはなぜか答えてはくれない。
「そんなこたあ、この池には関係ないこった。よけいなことを考えるものじゃない!」
時にはヒゲをいらいらと震わせながらどなりつけることもあった。
シンがどこから連れてこられたか、それは誰も知らない。またシンが自分から語ることもしない。そして誰もきこうとはしなかった。なぜか。それを知ることはこの池で育ったものたちにはなんとなく恐れを感じさせたのだ。得体のしれない、なにかとんでもない重大なことのように感じるのであった。
そんな事情もあって、シンは孤独であった。しかし、不思議と悲しそうではない。それは決して孤独に慣れてしまったからではないようだ。
「シンさんは時折何を見ているんじゃね?」
長老だけが親しく尋ねることもある。するとシンは、
「いやいや、何も……・あまりお天道様がうららかなもんでな。今日は波も静かで実に音楽的な光りようではないか。」
シンはさりげなく答える。しかし、相手は、
「いやいや、それだけかな? おぬしは時折遠くを見つめておるようじゃ。この池の長さよりも、深さよりもずっと遠くを。そしてその時のおぬしの顔は深い喜びをたたえておる。わしは、むかあしっから、おぬしのその笑顔がうらやましくてたまらんかった。みなのものは何をいうか知らんが、それはおぬしがここにくるまでの若い時の思い出でもあるのじゃろう………
だが、それは聞くまいぞ、聞くまいぞ。とうていわしには理解できるはずもないのじゃから。
わしは反面恐ろしくもあるのじゃ。おぬしのその喜びを知ったら、わしはわしでなくなりそうでの………
なんであろうと、わしはこの池の主じゃ。いまさらそれはかえられん。わしは神様を祭り、皆を守り、やがては若いものの糧となって果てようぞ。それがわしの運命なのじゃからな………」
シンは何も言わず、深い友情と慈愛に満ちた笑顔で相手をみつめた。長老もまた同じように微笑んだ。しばらくの沈黙の後に、長老はとてつもなく大きな体をゆったりと巡らし美しい光のカーテンの中を午後のみまわりに出かけていった。
シンはまたひとりにもどり、今は盛りのハスの花や葉の陰に身を寄せて瞑想に入っていくのだった。水草が光をたくさん吸い、ポコリ…、コロリ…泡を吐き出している。鯉たちは昼寝の時間。池はいつもの午後のように静かであった。
4
あるとき、その瞑想をやぶるものがあった。
例のギンが突然シンの方に飛び込んできて、豊かな腹に体当たりをくらわした。
「おやおや、いったいどうしたわけじゃ。うわさの坊主じゃな。珍しいこともあるもんじゃ。この年寄りになんの用じゃい…?」
特に怒りもせずにシンは尋ねた。
「でっかい影が!… おじいちゃん、影が突然襲ってきた! 恐い、恐い! みんなが今大騒ぎだ。」
「なに?…… ほほう、なるほどこりゃ大変な騒ぎじゃ。」
「アッ、また来た!」
そのとたん、巨大な影が突然舞い下りてきて、大きな音をたて て水面を叩いた。池の鯉たちは辺り中を泳ぎまわり慌てふためいている。
「は、は、は、…… これは珍しいお客さんじゃ。
あれはサギと言ってな、我々を食おうとねらっているんじゃ よ。ここにはヒト…… いやいや、神様がおるから姿を見せないのじゃろうと考えておったが……
ふーん、たびたび来られるとやっかいじゃの。気をつけよ。のんびり水面近くで昼寝なんぞしておると取って食われるぞよ。」
「いやだ、いやだ! 食われるなんていやだよ!」
「うーむ、……… いや、ただ通りすがりのサギであろう。
ほら、神様たちがとんできたではないか。…… ほら、追い払ってくれた。ははは、これで、やつはここが良い餌場ではないことがわかって、もう二度とは来るまい。」
「本当? …… びっくりした。あんな恐ろしいものがいるなんて。」
「ははは、これ、若いの、もっともっと恐ろしいものはたくさんいるぞ。」
「へー、いったいどんなものだい? 」
「うーん、同じ鳥ならトビやカモ、陸のものならキツネやイタチ、熊なんかも ………… 」
シンは突然口をつぐんだ。ギンがポカンと口をあけて不思議そうな顔をしていることに気づいたからだ。
「 …… そうであった。ここのものたちには話しても決して分からぬことであった。」
シンは全身のひれを一震いさせると、気を取り直していった。
「ギン、おまえはずいぶん元気がいいんだそうだな。長老が嘆いておったぞ、とんだメガネ違いで恥をかいたと言ってな。」
「ふん、みんなが勝手にそういうだけだ。おれはしたいことをしようとするだけなのに、みんながおれを毛嫌いする。」
「ははは…… それはきっと生きづらいことじゃろうよ。自由になることが、簡単そうで一番むずかしい……… おまえのウロコをみると、もう三才になったようじゃな。」
「そうだ。……… ねえ、シン。頼みがあるんだけど…」
「なんじゃ。」
「みんながシンはどこか遠くからきた、といっているけど本当かい?」
「……… そのあとに皆は何と言う………」
「それは……… そこはとんでもない地獄のようなところだって。だから、あまりシンには近づくなって、地獄の呪いがうつるって。」
言いよどみながらギンは思い切って言った。シンが怒り狂ったらどうしよう、本当に地獄の底に叩き落とされるかもしれない、そんなふうに心配しながらギンはシンの言葉を待った。
「はっはっはっは……… 」
しかし、かえってきたのはシンの豪快な笑いであった。
「はっはっは…… 地獄の使者とは恐れ入ったわい。ギンよ、わしが今、そう見えるかい? 」
「いや、ぜんぜん。……… では、シンはいったいどこからきたの?」
「それは、今まで誰にも話したことはない!」
シンが突然、毅然として答えたのでギンは再び緊張した。しかしすぐに柔和な顔にもどったのでギンは、
「ごめん、聞いてはいけないことならいいんだ。」
いつになく素直な気持ちで言った。
シンはそんなギンの姿をしげしげ眺めていた。やがて、
「ギンよ、おまえは不思議な若者じゃな。わしはここに来てから今まで心のなごむことはほとんどなかった。しかし、こうしておまえと話しておると、なぜか何でも話せるような気がするわい…… おまえが本当に望むのならいつか向こうの世界のことを話してあげよう……… ただし、本当に望むのなら、じゃ。それはあまりに危険なことじゃからな……… 」
「………」
ギンは何かしら神聖なものに触れたような神妙な気持ちに満たされ返事ができなかった。
「そうであろう、そうであろう……… よおく、考えてくるがいい。話を聞けば必ずやおまえの一生は変わるであろうからな。命がけで聞きにくるがいい。」
ギンはコクリとうなづくと静かに身をひるがえして去っていった。
その後、池はまた元の静けさにもどり、水中に差し込む日差しはあたたかであった。水草がゆらりゆらりと揺れている様を眺めていると、シンもまたウトウトと眠くなってくる。
「歳をとると、ここの生活もいいもんじゃな…… 」
そんなことを考えながら、ちょっとした事件のあった午後をシンは眠って過ごした。
5
ひときわあでやかな若い雌がいた。やや桃色がかった透き通るような白地の背中にサッと刷毛で一なでしたような朱の線がはいっている美しい鯉で、やはり三才であった。
若い雄で彼女に惹かれないものはなかった。お恵みをいただく時以外はほとんど彼女の後を追って過ごしているものも何匹もいた。
そんなものだから、彼女もなかなか気位が高くなって、雄が言い寄る側から強烈な制裁を加えつづけていた。無視を何日も続けたあげく尾びれで相手の横っ面をひっぱたくなどは日常茶飯事、時には別の、彼女に舞い上がっている雄をたきつけては集団でしつこい雄を襲わせ、ウロコの二、三枚をはぎとる位のことはしょっちゅうしていた。
年老いたものたちは笑っていたが、そんな不名誉な傷跡を一生背負わされて泣かないものはなかった。そのとき初めて、彼は彼女の一通りでない高慢さと薄情に気づくのであった。
彼女の名はミンという。
「わたしは誰とも一緒にはならないの。」
ときどき雌仲間に向かってミンは言い放った。
「わたしのような強い女を御することのできる雄なんていないじゃないの。ああ、生まれてくる時代を間違えたわ。」
「へえー、たとえば大将のような強いひとに言い寄られても?」
仲間が冷やかし半分にきく。
「大将はもう歳を取りすぎてるじゃない。それに、なーに、取り巻きをみてよ。ろくな雌を連れてないじゃない。わたしはそんな安っぽいコレクションの一部になんかなりたくないの。」
あんまりきっぱり言い放ったので、仲間のほうが心配してあたりを見回したほどであった。
それでも雄の習性とは哀れなものである。ミンの後をつけまわすものは後を絶たなかった。
ある日の集会の時、ミンはさぼって一匹で池の端までやってきた。
「やれやれ、大将や長老の長いお説経にはいつもながらうんさり……… こんなときでもなければ一人でゆっくりできないわ……」
そうつぶやいて水草の陰に身を潜めようとした時、ミンは思わず悲鳴を上げた。一匹の雄が先に潜り込んでいたのであった。のんびりと大きな泡を立てながら昼寝をしていた。
「なによ、あんた! 」
驚きが怒りに変わり、ミンは叫んだ。
しかし、相手は何も答えない。じろりと彼女を見やっただけで、その雄はゆっくりと尾を動かして水草の陰から出ていった。
「…………」
これまで雄が自分を見て目を輝かせないことはなかった。何か言わずにはいられなかった。しかしこの雄はまるで自分など目にはいらぬようである。ただ、去っていく。
ミンは何も言えず、ただ見送っていた。
ギンとの初めての出会いであった。
6
シンのもとへギンが出かけていったのは一週間もたってからであった。
この間、ギンはひたすら考え続けていた。シンの話を聞くべきかどうか………。彼はそれでギンの一生が変るであろうといった。その言葉がギンの耳から離れない。もしかしたらこの面白くもなんともない日々から抜け出すことができるかもしれない。それは正にギンにとっては救いであった。なんとも言えぬ魅惑をたたえている。
けれども良い方向に変化するとは限らない。もしかしたら恐ろしい悲惨な結末を迎えることになるかもしれない。今以下のつまらぬ生活に陥るかもしれない。それは考えるだけでも身震いのでることであった。
シンのところに向いながらもギンはまだ迷っていた。しかし、この一週間の苦悩はもはやギンにとっては限界であった。もうひとりでは耐えられない。だれかに助言をもらいたい。そうなれば、必然的にシンしかいないではないか、そう考えたわけでもないが、彼は知らずしらずシンのところに向かっていたのである。
シンがいつも冥想にふけっている岩陰に近づくと、思いがけず話し声が聞こえてきた。シンは常に孤独であった。というより孤高であった。彼が別の鯉と話すことはごくまれである。
「…… そうか、それほど変ったのか…… 」
「そうさ、それほど変ったのさ………仲間たちはどんどん減っていくばかり…… 」
一方は確かにしわがれたシンの声である。しかし、後の言葉は鯉族の声ではなかった。シンは言う。
「ああ、あのさわやかに流れる水の勢いが恋しいわい……
こんな、よどんだ生ぬるい所でなく、勢いのよい流れに昔のように力強く逆らって昇ってみたいわい……
マス達と泳ぎの速さを競ってみたいわい……
思うぞんぶんに、どこまでもどこまでも遠くを旅してみたいわい………
ああ、しかし、今となっては夢の夢…… わしにはあくまで思い出でしかないのじゃな……… 」
「そうじゃな……… 残念ではあるが、そうであるな…… 」
だれかが答えた。
しばしの沈黙があった。
ギンはそっと近寄ってみた。すると、緊張のあまりか泡がポロリと口元から一つ浮いて出てしまった。とたんに、
「おおっと! こりゃ、いけね!」
後の声の主がそれに気づいてあわてて逃げ出そうとした。
「おいおい、殿さん、大丈夫じゃ。この子はあんたを追っかけたりはせんよ。」
シンが笑いながらそう言った。
見ると、大きなトノサマガエルが及び腰のまま、丸い目玉でギンを見つめている。
「シンさん、本当かい? 大丈夫かい? わしは若い頃片足をあの品のない大きな口に吸い込まれたことがあるんじゃ。もう少しで食われてしまうところじゃった。」
それを聞いてギンは腹をたてた。
「馬鹿にすんない! だれがおまえなんか食うもんか! 」
「まあまあ、ギンよ、そう怒るでない。 この殿さんはわしの昔からの話相手でな。」
シンはカラカラと笑いながら言う。ギンにとっては、また新たな驚きであった。このシンという鯉は誰もが気味悪がって近づきもしないカエルなどを相手に語り合っている。しかも友達とさえ言う。このカエルはギンの生まれる前からいるそうだが、特に鯉族と利害がぶつかりあうこともないので、みんなは知らないふりをしている。時に若いやつらがからかい半分につっかかることもあるが、彼は巧みに攻撃をかわし、石をよじのぼると鯉達が決して到達し得ない高みから勝ち誇ったようにゲロゲロと歌うのだった。
「ギンよ。殿さんは今、旅から帰ってきたばかりでの。今、その話を聞かせてもらっていたのじゃよ。」
「へえ、おもしろそうだな。だけど旅ってどこのこと……? そういえば三、四日姿が見えなかったようだけど。いったいどの石の下に隠れていたんだい ? 」
わっはっはっは………と年より達は笑いこけた。
「なるほど、なるほど。ギンにはわかるわけはないのじゃった。
だが、それは内緒じゃ。前に言ったとおりお前には聞かすわけにはゆかん………」
シンは言う。
「そうじゃなあ。若いもんには特に毒じゃなあ……… 」
巨大なカエルも同じようにうなづいた。
ギンはまた迷った。それほど自分の運命を左右するような重大な秘密をこの両者は知っている。それを語り合っている。
「シン。おれはまだ決心がつかないんだ。知りたい、聞きたいと眠れないほど思う一方で、恐いんだ。」
「そう、そうであろう。無理はする必要はない。聞かなくても一向にかまわんことじゃ。忘れろ。この事は忘れるがよい。」
シンは温かい眼差しで言った。カエルは黙ってギンを見つめている。ギンはまた何も言えなくなった。静かに見をひるがえしてその場を去っていった。すでに日暮れ時、夕焼けの光が池の中まで射し込んでいた。
7
ミンはいつものようにだいぶ朝早く起き出して、寝覚めの運動がてら、ゆっくりと池を巡っていた。早い時間でないと雄どもがうるさくつきまとい、朝からうっとうしい思いをしなければならない。まだ薄暗い水の中を静かに巡っていると、ミンでさえ、自然と思慮深くなるものである。日ごろは多くの崇拝者に囲まれてうるさいほどの賛辞をもらい、餌も運んでもらい、何一つ不自由しないのだが、こうしてひとりでいると、何か物足りない気がしてならない。それは、自分の強欲か、と自身で反省もし、これ以上の幸福を望むのはいけないこと、と思い込もうとするのだが、しかし、この空虚感はどうしても追い払えないのである。今朝もそこまで思い至った時、彼女は言い知れぬ憂鬱な気持ちに満たされてしまった。
そこへ突然、ちょっとした事件が起きた。
「ミン!」
突然目の前に若い雄が現れたのである。ハッと驚いてみると六才のデンである。最近とみに言い寄ってくるようになったやつだ。
「ミン、ちょっと話を聞いてくれ。」
彼のせっぱ詰まった調子にミンは気が重くなった。話といってもどうせ自分の愛を獲得したいという懇願に違いない。
「なに、突然に、こんなに早く………」
ミンは自分の静かな時間を邪魔された不快さと先ほどからの憂鬱とがないまぜになったおかげで、だいぶ冷淡な声で言った。
「ミン、おれの気持ちは分かっているだろう? おれは誰よりもお前のことを好いている。どうかおれのものになってくれ。おれは若手の中では誰よりも大きくて強い。お前を一生おれは守っていく。誰にもお前の幸福を邪魔させはしない。なあ、ミン !」
デンは彼なりに真心を込めて思いを伝えた。しかし、ミンはまだ若すぎた。デンの誠意はなんとなく感じながらも不機嫌はどうにも押さえることはできなかった。
「ああ、もうそんなことは聞き飽きたわよ! そんなことをいうためにわたしの貴重な散歩を邪魔しにきたの。さっさと行って!」
「ミン、なぜそんなにつれない言い方をするのだ。なぜ、このおれを拒むのか。」
いつもは若手のリーダーとして肩で風を切って泳いでいるデンらしからぬ情けない口調で、彼は哀願する。ミンの苛立ちは頂点に達した。
「もう、うるさいのよ。あんたはわたしの好みじゃないのよ!」
「ほう、それではいったいどいつが好みなんだ?」
そう言われて、ミンは一瞬言葉につまった。今のミンには愛する雄などいはしない。しかし、会話の流れとして誰かの名を挙げなくては……… そう思った時、意外な名がふっと頭をよぎった。
「わたしはね、ギンが好きなのよ!」
デンは絶句した。ミンも言ってしまってから絶句した。
「ギン……? 今、ギンと言ったか……? 」
驚きあきれて、デンは思わず聞き返した。
「そ、そうよ…… わたしはギンのようなのが好みなの!」
ミンもまた言い張った。
デンはしばらく無言のまま考え込んでいたが、やがて静かに向きを変え去って行った。ミンは後ろ姿を見送りながら、何か事件にならなければいいがと漠然と不安をいだいたが、持ち前の軽率さからすぐにそれも忘れてしまい、邪魔物が去ったことで晴れ晴れとした気分になり、散策を続けた。まるで融けたヒスイの中を泳いでいくようであった。
8
それから二日後のこと。
ギンがいつものように年不相応の場所で餌を取り、ひんしゅくを買いながらもそれに気づかず、物思いにふけっていると、突然横腹を突っつくものがあった。見ると一才になるかならないかの黒いちびっこがさかんに突進してくる。
「エイ!」
五六度目にぶつかってきた時、さすがにムッとしてギンは尾びれでチビを払った。すると、簡単に石垣のあたりまで吹っ飛んでしまった。
「うるさいやつだ。なぜそんなことする!」
ギンは右眼をぎょろりとさせてチビに尋ねた。
するとチビはワンワンと泣き出した。
「泣くな。おれは今まで泣いたことなんかないぞ!」
ギンはつい微笑みながらいった。
するとチビもそれを見て安心したのか、泣き止んで、
「だってデンの兄貴がやっつけて来いって…… ギンはミンのことをいじめてるっていうから。」
「なんだって…… ?」
ギンはわけが分からなかった。この三者の関係がまるっきりつかめない。
「お前はミンの何なんだ?」
「ぼくはミンの、たったひとりの弟分さ!」
チビは誇らしげにいう。
「ミンさんと仲のいい雄はこのぼくだけさ!」
ギンは、きっと孤独を感じているミンにとって、唯一心を許せる存在がこのチビ助だけなんだろうと想像した。
「大丈夫だ。おれはミンをいじめたりしないさ。彼女はおれにはなんの関係もないのだから。」
「でも、デンさんが……」
「デンも、おれには何の関係もない!」
ギンは思わず声を荒らげた。デンがなぜ自分に嫌がらせをしてきたのか。これまでも若手のリーダーとして、たびたび食事の順番や場所、他のものへの態度などのことで注意という名目で文句をつけられたことがある。そのたび、言い合いになったり小競り合いになったりしたものだ。もう一歳の頃からで、もっとも気の合わない二人である。しかし、理由もなく、今日のように嫌がらせを受けたことはこれまでない。ギンが不審に思ったそのとき、
「ちょっと、なんでピチをいじめるのよ!」
ミンが真っ赤になって怒りながら現れた。
「どうして、あたしの可愛い子を泣かすの!」
「いじめてなんかいないさ。そいつに聞けばわかるさ。」
ギンはいちいち説明するのも面倒なのでその場を立ち去った。
後ろで、いつまでもミンのわめき声が聞こえていた。
9
ピチがギンのもとへ遊びに来るようになったのはそれからである。ギンが例によって身勝手な食事を終えてなんとなく物思いにふけっているとピチがしばしばその静寂を破るのであった。
「ギンにいちゃん、また昼寝かい? おいらと遊んでくれよ。」
ギンはしかし、孤独を愛する。というより、孤独の中で育ってきたのでピチをどう扱っていいのやら分からない。
「お前に,にいちゃんなんて言われる筋合いはないぜ、向こうへいけ!」
おおむね、ギンは相手にしなかった。しかし、どういうかげんか、ピチはギンのそばを離れようとはしない。
「どうしてお前はおれの後をついてくるんだ。」
ある日、ギンは尋ねた。怒るというより、心底不思議な気持ちになったからである。
「どうしても、さ。だって、ほかのやつらといてもつまらない。」
「おれといたって、もっとつまらないだろう?」
「うん…… でも、ギンはなんとなく、いい。かまってくれないけど、でもいばらないし、うるさい作法なんかもとやかくいわないもの。」
「そうか、変なやつだな。おれといるとみんなが何か言うぞ。それでもかまわないのか。」
「ああ、…… でも、どうせおいらはみんなから相手にされないんだからいいんだよ。」
「なぜ相手にされない?」
「さあ、…… ただおいらは跳ねるのが大好きなんだ! 水の上を覗くのがとっても好きなんだよ。しょっちゅう跳ねるからみんながうるさがる。」
「水の上?」
「そうさ!」
「水のうえ…………」
「ピチ、何してるの?」
突然、水草を分けてミンが現れた。
「あんたはなんでギンのあとばっかり追っかけているのよ。」
ピチは黙り込んだ。ギンがその場を去ろうとすると、
「ギン、この子に変なこと吹き込まないでよね。」
ミンがそう声をかけた。
「おれは何も言ってはいない。」
ギンは振り向きもせず答えた。一匹の一つ年上の雄とぶつかりそうになったがギンはよけようともしない。その雄はしかたなく進路を譲りながら
「チェッ」
と舌打ちをした。
10
その夜は新月で暗かった。夏も最中で、生ぬるい風が水面をなでて、不気味なさざ波をたてて渡った。鯉達もぬるい水のなかでなんとなく寝苦しい夜を過ごしながらもウトウトとしている。
ギンもいつもの石に身を寄せながらなかなか眠れないでいた。
そして、考えていた。なぜ、ピチは自分のような外れ者の所へ好んで来るのだろう。なぜ、ミンはピチだけを可愛がっているのだろう。そして、なぜピチは跳ねることが好きなのだろう。彼は水の上を見るのが好きだといった。水の上……… 水の上………
ギンはなぜかシンを思い浮かべた。シンがいう、自分の知らない世界とはどんな所なのだろう。どれほど素晴らしいところなのだろう。逆に、どれほど危険な冒険に満ちているのだろう。行ってみたい、しかし、やはり恐い。そう思うとギンは自分の弱さというものをまざまざと感じざるをえなかった。
ふと、何かの気配を感じた。眼を凝らして暗闇の中をのぞくと、なにやらいくつもの黒い影がうごめいている。
「なんだ、おまえ達は!」
そう言うがはやいか、一つの影が猛烈な勢いでギンの脇腹に激突した。
「!……」
ギンは激痛に声が出せない。するとそこに第二、第三の攻撃が加わった。一言も声をあげるまもなくギンは影たちに完膚なきまでに打ちのめされてしまった。
短い時間だったか、永遠のようでもあったが、朦朧と薄れ行く意識の中でギンは最後に一言だけきいた。
「ミンに手を出すな。」
11
「これ、ギンではないか! しっかりせい!」
明け方、まだ薄暗いうちに、水面近くに意識を失って仰向けになって浮いていたギンを発見したのは、偶然にもシンであった。
「どうしたのだ、いったい。これほど傷だらけになって。」
「…… あ、ああ…… シン………」
シンは意識のもどったギンの体に身を寄せて支えながら、やっとのことで誰にも気づかれない水草の陰へ連れていった。
「いったい、誰にやられたのだ?」
「…… 分からない…… だが、雄たちということは確かだ……」
「なぜじゃ?」
「ミンに手を出すな、と言っていた。……… しかし、おれは何も知らん。ミンにも興味はない………」
「ふーむ………」
おおかた、若いもの同士の雌をめぐってのトラブルであるらしい、とは予想できたものの、詳しい事情はもちろんシンにも分からなかった。
「何かお前が誤解されておるのかもしれん…… ま、後でわしが長老に事情を話しておくことにしよう…… とにかく、よーく休んで元気になることじゃ。大勢で、よってたかってひどいことをしよる!」
「ありがとう、シン……… 」
さすがのギンもシンの親切は身にしみて、素直に礼をいった。
しばらくの沈黙の後である。
「シンよ………」
「なんじゃ、…… 苦しいのか? つらいのか?」
「いや…… シン、願い事がある……」
なにやら物思いに沈んだ声でギンは続けた。シンは次の言葉を待った。
「シン、向こうの世界の話をしてほしい………」
「……向こうの話か……」
ついにギンは覚悟を決めたか。シンは思った。
「おれはもうこの世界はつくづくいやになった。おれの居場所も無いようだ。ここは狭い。…… どうせ生きるなら、たとえ地獄が待っていようとも新しい世界に賭けてみたい……!」
「そうか… そうか… 」
シンはくどくは言わなかった。もう、すでに何日もギンが悩みつづけたことをシンは知っていた。そして昨夜の事件が彼の決意を固めさせたことも推察できた。なまじ、大きすぎる夢など聞かせない方がよい、かなわぬ幻想と欲望に一生さいなまれつづけるよりは知らない方が幸せ…… これまでシンはそう信じ続けてきたので、長老にも若いものにもひたすら前の世界のことは口をつぐんできたのだった。
しかし、なぜかギンには聞かせてもよい、いや、むしろ聞いてもらいたいというような気がするのだった。このような狭い世界の中で与えられる餌を貪ることに全神経を費やして一生を終えていく、ここの住民たち。しかしそれは本当の鯉の姿ではないはず。それすら知ることもなく朽ちていくここの連中は、あまりにも憐れであった。
「そうか、どうしても聞きたいか。ならば話してやろう。
だが、その後で何が起きようとも、後悔しようとも、それはすべておぬしが責任を持たねばならぬぞ。」
「分かっている。たとえそのまま死のうとも、おれは聞いてから死にたい。」
「よし、ならば聞け!」
シンは語った。彼が生まれ育った大河の様子を。無限大に広がる大きな大きな世界のことを。ドジョウやウナギたちとの日々の戯れを。サギやカモやトビなどに追われるスリリングな日々を。
無限大の広さを持つ河。いずれは海に至る河。シンは河口まで冒険したことがある。あの塩辛い水の匂いが記憶の底から蘇ってくる。彼はタコにおどろいた。ウツボにひどく驚かされた。
小アジの大群に囲まれ、前後を失い目を回したこともあった。
どこまでもどこまでもさかのぼっていったこともある。次第にひんやりと冷たくなる水。頭の芯まで凍えそうな思いがけない寒さに身を引き締めたあの日。その中を元気に泳ぎまわるマスやカジカ。どこまでもルビー色に透けて見える風景の中で彼らは美しく、気高く、そして俊敏であった。
カワゲラやその他の川虫たちの美味、また水面をとびかうカゲロウの美しさ。朝霧の中で高く跳ねまわり、それらの餌を追う魚たちの雄々しさ、気高さ。
恋の季節には豊かに肥えた一匹の雌に何匹もの雄たちが群がり争奪戦をはでに繰り広げる。月夜の晩に興奮した雄たちの跳ね回る水音が夜通し響くのだ。
どこまでも、どこまでも行けたのだ。何にもさえぎられずに思うがままに。ほかの鯉がしり込みするような激流に逆らい進むことがどれほど若いシンにとっての誇りであったろうか!
「…… そしてな、お前たちここの者どもがいう神様というものは、我々はヒトと呼んでおった。やつらはトビよりもサギよりも恐ろしい存在じゃ。なぜといって、様々な罠を使うからじゃ。分かっていても空腹な時は餌の誘惑にはなかなか勝てないものだ。やつらの恐ろしさをよく知っている年寄りでさえ、時折ひっかかってしまう…… するとやつらは大物がかかったといっては喜ぶのじゃ。」
「では、シンも……?」
シンは黙ってうなづいた。
「しかし、わしは運の良いほうじゃ。少なくとも殺されずにこうしていられるのだから……」
そう、シンは言ったが、本心は幸運であったかどうかは疑問であった。
「……シンは今でも、そんな恐ろしい敵がいっぱいいるカワにもどりたいか……」
ギンはためらいがちに尋ねた。しかし、シンは深い深いため息をついただけであった。泡が三つ四つ朝日の昇った水面に向かって輝きながらのぼっていった。
しばらくの沈黙の後、彼はしずかにつぶやいた。
「わしにはもう戻ることはできん……」
12
三日ほどギンはシンのもとでゆっくり休養した。その間にも色々な話を聞いた。
ギンの体力が回復するにつれ、彼の河に対する憧れは増していった。河、河、河……… 危険もたくさんはらんでいるが、それにもまして大きな喜びに満ちている河。
三日目にギンはとうとうシンに尋ねた。
「シン、どうしたら俺は河にいけるだろう?」
シンはその時、ひどく表情を曇らせていった。
「やはりお前は行きたくなったか。そうじゃろう、そうじゃろう。わしはやはり大変な罪作りをしてしまったのかもしれん。
ギン、お前がそう言い出すのはもっとものことじゃ。特に若いお主にはの。
はっきり言っておく。ここからお主の力だけで河に行くことは不可能じゃ。わしはここに連れ込まれてから長い間、逃げ出せる可能性をずっと考え続けてきた。しかし、今日まで答えは出なかった。」
「絶対、だめか?」
「だめじゃろう……… それだけはあきらめろ。」
そう言って、シンは苦しそうに向こうに行ってしまった。
13
ギンの体はすっかり回復した。しかし、彼は冥想にふけることが多くなり、ともすれば餌も取らずに一日中動かないこともあった。頭のなかはもちろん河のことを考えているのである。河への熱い思いはシンにあきらめろと言われても冷めるどころか日増しに増していく。
それに比べてここの生活のなんと魅力のないこと! ここではもう何もしたいとは思わない。餌を好きなようにあさることも今では全くばからしいことに思われた。こんな生活が一生続くくらいであれば、ここまま飢え死にしたほうがましのようにも思われた。
そうして一週間近くたったある日の明け方、突然ミンが現れたのである。
「ギン、あなた誰かに襲われて大怪我したんだって…… ?」
「…… そうだ、誰かは分からないが、大勢のオスどもだった。
もしかすれば、若い者すべてだったかもしれん…… 」
「そして、あたしにかまうな、って言ったんだって……」
「……………」
「はっきり断っておくけど、あたしのせいじゃない。」
「…… 分かっている……」
「本当? 本心からそう思ってるの ? …… きっとデンの一派だわ。あいつ、あたしに気があってしつこく言い寄ってきてるの。」
「だったらヤツに言っておけ。おれにはミンのことなどまったく興味がないのだと。勝手な誤解は迷惑だ、とな。」
「分かったわ…………
ねえ、一つ聞きたいけど、あなた本当にあたしに興味がないの?
うそでしょ。どのオスだってあたしが通るとみんなこっちを見るわ。あの大将だって最近何か言いたそうに近寄ってくるのよ。フフフ……」
「それは良かったな………」
ギンの心はもうそこにはなかった。彼はうつろな目をしたまま、泳ぎ去ろうとしている。ミンはすっかり面食らってしまった。まさか本心から自分に興味を持たないオスがいる、などということはこれまで考えてもみなかったからである。
「ギン、あんた本当にオスなの? どのオスだってみんなその年頃は自分の相手を必死で探しまわるものだわ! それなのに、わたしが自分からこうしてあいさつに来てあげてるのに、なによ、その態度は……… 」
ギンの耳にはもはやミンの声は聞こえていない。
「ちょっと、ギン! あなた、いったいどこを見てるの? 」
ミンの叫びだけが早朝の池に響いていた。
14
次の日の夕方、ギンはあるものを目にとめ近寄っていった。
「おおっと! びっくりしたわい、誰かと思ったらギンさんかい。」
池の中央の大石の上でケロケロと歌を歌っていた殿さんは跳ね起きた。
「わしゃ、若い連中に飲み込まれるかと思ったぞい。」
「なあ、殿さん、おれはシンから話を聞いたよ。」
「話というのは…… もしかして、河のことかね……?」
「そうだ、すっかり聞かせてもらった。」
「さようか…… それはシンさんも、かなりの考え、覚悟があってのことなのじゃろうな……」
カエルは深いため息をついて星空を眺めた。ギンも頭を水面に出して星を見た。水上の世界とは何なのだろう。これまでそんなことは考えたことはなかった。ギンにとってはこの池の中がすべての世界である。
「殿さん、…… あんたは水の中もオカの上もよく知っているんだよな。」
「そうじゃな……」
「陸の世界は楽しいかい ?」
「うーむ、…… いろいろ恐ろしいことも多い。わしの仲間でぼんやりしている連中はよく踏み潰されて死ぬわい。ははは…」
「踏み潰される?」
「そうじゃ。牛や馬や、人の車などにな。そうして葉っぱみたいに平らになって、ひからびてちぎれて風に乗って消えていく。」
「へえ、そんなことがあるのか。」
「あとは、餌になるんじゃ。ヘビや他の動物たちの、な。わしらが虫をとって食べるようにな。わしらの仲間は多い。無数におるから…… それにわしらには何の武器もない。せいぜいが、この太い脚でぴょんと跳ねて逃げるだけじゃ…… 苦しいことのほうが多いものじゃよ、オカは。だから、わしは水中のほうが好きじゃ。お主らに邪魔にされておるが、天気の良い日に、のんびりプカプカと水に浮かんでいるとなんともいえぬ良い気持ちじゃよ。ははは……」
「ここは良い所か?」
「うーむ、…… わしら年寄りにはな……少なくとも危険はない。」
「殿さんがもしオレだったら、ここにいるかい?」
「これは難しいことを聞きおる。……… はっきり言おう。
ここには希望、夢、進歩というものはない。」
「殿さん、おれは河に行きたい!」
「いやいや、それは無理じゃ!」
「本当か? 絶対か? 可能性はゼロなのか?」
ギンは必死で食い下がった。
カエルは黙ってギンの眼のそこを覗き込んだ。
そして、しばらくの沈黙の後、カエルはつぶやいた。
「……あの小川まで行けたら、ともすれば……」
「あの小川?」
「そうじゃ。ここから、わしの脚で五十跳びの所に流れている川じゃ。」
「そんなものがあったのか……」
「おぬしたちの眼には決して届かないからのう。ほれ、じっと耳を澄ましてごらん…… 聞こえるじゃろう、遠くで、遠くでサラサラというせせらぎの音が幽かに……」
「あれは風の音とばかり思っていた。」
「いや、あれは大河につながる流れの音じゃ。わしらにはなんでもない距離じゃが、しかし、おぬしら鯉族には永遠に届かぬ距離じゃろうよ。」
15
ギンはいっそう気難しく、孤独になった。もう餌も今は二三日に一度採るか採らないか。それも一口二口を吸い込むだけで、頭の中はまったく別のことを考えているのである。
一週間前までとは比べ物にならぬほどやせ衰えてしまったギンをシンは心配そうに眺めていたが、同時に後悔していた。やはり話すべきではなかった。若者の心をかき乱してしまった。あまりにも河の話は魅惑的すぎる。罪深いことをしてしまった……… ギンの憔悴しきった姿を見るにつけ、シンは胸を痛めるのであった。
ある朝のことである。
「シン。」
ミンが突然現れた。
「おや、これはこれは…… ! お姫さまの登場とは。いったい何事かね?」
「ねえ、ギンはいったいどうしちゃったの? もともと変わり者で通っているけど、最近はとみに変じゃない。初めからそうだといえばそうだけど、このわたしが近寄っても今はまるで目にはいらないようだわ。話しかけてみてもろくに返事すらしない。聞いてないんだわ。いつも遠くを見ているような目をしてる。
シン。あなたが何か知ってるんでしょ?」
「……いや、わしは何も知らんよ。」
「うそ! 実はこのピチが、あなたがた二人で長々と話しているのを見てるのよ。」
「そうだい、ぼく見てたよ。ギンとシンがこの前話してた。なにか、カワがどうの、こうのと言ってたよ。それからだよ、ギンがぼくと遊んでくれなくなったのは。ぼくがいくら遊んで、といってもまるで上の空さ。ぼく寂しい。」
ミンの陰に隠れてついてきていたピチが口をはさんだ。
「そうか、あれを聞かれてしまったか……」
シンの顔に苦悩の色が現れた。
「ねえ、シン。ギンはどこに行こうとしているの? そこにはいったい何があるの? このわたしよりきれいなものがあるというの?」
シンはしばらく答えられなかった。当然、この若いもの達にギンのような苦しみを与えるわけにはいかない。
「…… ミン。おまえのように若く美しいものが、なぜギンのようなはみ出しものに興味を持つのじゃ? 」
やがてシンはヒゲを優しく震わせて尋ねた。
「おまえには大勢の友達があろう。みながおまえを愛しておるじゃろう。なにも寂しいことはないはず……」
「そうよ、雄たちはみーんなわたしを好きだわ。デンは若手のリーダーよ。その彼がわたしにぞっこん。それだけじゃないわ、大将でさえ、最近わたしをしげしげと見ているの。」
「そうか、そうか。それは幸せじゃのう。」
シンは満面に笑みを浮かべていった。
「おまえたちはおまえたちの生活を大事にするがよい。充分生活を楽しんでな……」
「でも、今わたし、そんなに幸せじゃない……」
「なぜじゃ?」
「退屈なのよ、何もかも。そりゃ、何もかも恵まれているし、不足はないけど、でも、胸の中はポッカリと空っぽのままだわ。」
「カラッポのう……」
「そう、カラッポよ。ねえ、シン。ギンはいったい何をしようとしているの? 何を考えているの? 」
「ギンは何もできないんじゃよ。それで苦しんでおるのじゃ。」
「そんなんじゃ、何もわからないわ。教えて!」
「そっとしておいておやり。それしかわしらにはできん。それがせめてもの思いやりというものじゃ…… 」
シンは静かに身をひるがえした。待って、とミンは叫んだがシンはもはや振り返らなかった。
16
その日の昼ごろ、のどかな日差しが水中に木洩れ日のような光をさしかけている心地よい時に、ピチがギンのもとに訪れていた。他の鯉たちはほとんど昼寝の最中である。
「ねえ、ギン。遊んでよ。おいら、寂しいよ。いっしょに池を一周して競争しようよ。ゲンゴロウ追っかけて遊ぼうよ。ねえ、…」
しかし、ギンは答えない。ただ空ろな目をして物思いに沈んでいる。ピチは腹を立ててギンの横っ腹を口でつつきながら、さらにねだる。
「ねえねえ、遊んでよ。ギン、いったいどうしちゃったんだよ。」
それでもギンは反応しない。ついに、ピチは、
「ちぇっ、ギンのばか!」
そういって、ひとりで水面を跳ねはじめた。ポチャン、ポチャンと可愛らしい響きを立てて、静かな午後の水面にちいさな波紋がいくつもできた。
「あ、トンボだ! ようし……」
ピチがそういってもう一つジャンプをした直後である。
ザボーン、と猛烈な音と波がたったのである。
ピチはびっくりして思わず石のかげに逃げ込んだ。
その跳躍の主はなんとギンであった。
「ど、どうしたの、ギン!」
ピチは目を丸くして叫んだ。しかし、ギンはなにも答えず、何度も何度も跳ねた。昼寝をさまたげられて、他の鯉たちも起き出してきた。そして呆然と狂ったように跳び続けるギンを眺めていた。
17
その日からギンは跳び始めた。何も言わず、朝から晩までヘトヘトになるまで跳んだ。それは遊びなどというものではなかった。ときおり疲れ果て意識を失うこともあった。しかし、やがて意識と体力を回復すると再び跳びはじめる。その様子にはなにか鬼気迫るものがあった。だから他のものたちは始めなにも言わないで見守っていた。ギンは食事をとりだした。なるべくたくさん食べた。ひたすら食っては跳び、そしてくたくたにくたびれて、夜はぐっすり眠った。
「シンさんよ。ギンは何をはじめたのだ?」
三日ほどして、月夜の晩に殿さんがシンのもとを訪れてきいた。
「さあな…… しかし、おまえさんもうすうす感づいていることじゃろう?」
シンは微笑みながら言った。
「うむ…… まあな。わしがあんなことを言ったからかもしれんな。」
「あの、小川のことを話したのじゃな。」
「そうだ。しかし、そこにたどりつけるはずはない。」
「しかし、あの子はそこに行こうとしている。そして大河まで…」
「なんという悲劇となってしまったのじゃろう。すまんことをした……」
「いやいや、それは殿さんのせいではないわい。いわばあの子の宿命じゃ。いずれは知れることじゃったわい。」
「しかし、不可能なことに挑ませて、あたら若いエネルギーを無駄にするのを見るのはつらい……」
「そうじゃな…… しかしあの子が自分で納得しあきらめるまでは、決して止めんことじゃろう。……… それより心配なのは他の連中のことじゃ。ひがな一日ギンが跳び続けておるものじゃから、うるさがる連中がおっての。また、何か事件が起きねばよいが……」
殿さんは大きな目をうるませて、一声ケロッと鳴いて、近くで死んだように眠っているギンを見て言った。
「わしはあの子が不憫でならん。河のことを知ってしまった以上そこへ行きたくなるのは当然のことじゃろう。決して河には行かれないとは思うが、それでも、なんとかできないものかと時折思うよ。ギンにとっては、ここは決して居心地のよい所ではない。他の連中のように、群れてそれで満足できるような性格ではない。やつには何か大きな可能性を感じるんじゃ。あの大河を旅させてみたいものじゃ。どこまでもどこまでも…… 」
「それはわしも同じじゃよ。できることなら…… しかし、どう考えてもあの小川までたどり着くのは無理じゃな。それを思うと胸が張り裂けそうになるよ。」
シンは大きな泡を一つ吐いた。
二匹はそのまま黙った。そしてそれぞれが大きな三日月を見上げ、物思いに沈んでいった。
そのとき、石の陰にいた一匹の鯉が二匹に気づかれないようにそっと水草の中に姿を消していった。
18
翌日。
朝日が昇ると同時に、ギンはまた、跳び始めた。この頃は、初めの頃より跳ぶのがずいぶん楽になった。前のようにすぐには疲れない。そして前よりかなり高く跳べるようになった。
朝のうちは、いわばウォーミンブアップだ。軽く体調をみながら跳び始める。ザポーン、ザポーン……と波しぶきを高くあげて、それが朝日にきらめくのを見るのが、ギンは好きだった。
早く、この石垣を越えたい!
それがギンの唯一の望みだった。
だが、現実はなかなかそうはいかなかった。なるほど、最近はギンの高度はだいぶ上がってきた。しかし、それでも周囲の石の高さの三分の二ほどがやっとである。それに案外池の底は浅かった。充分に跳べるスピードを得るための助走をつけるには、浅すぎたのである。
しかしギンはあきらめるつもりはなかった。ただひたすら跳び続けようと決心していた。
また、ギンは十回ほど立て続けに跳んだ。そのときである。
「ギン、あなたの望みが分かったわ。」
ミンがふと現れた。ギンは一瞥をくれただけである。
「あなた、馬鹿なことしてるのね。およしよ、そんな無駄なこと。この世界から出て行くなんてできっこないじゃない!」
ギンはしかし、何も言わない。
「石の壁を跳び越えて出て行く? ふん、馬鹿げた幻想だわ。いったい、あなたの頭の中はどうなってんのよ。やること、なすことまともなことは何もないじゃない! 」
「小川を伝って、カワに行く? そこは夢の国だって? 笑わせるわ。ここにもたくさん夢があるじゃない。たくさん餌をとる力をつけて、大きくなって、強くなって、部下や、すてきな雌をたくさん従えて…… そんなすてきな事以外、まだおもしろい夢があるっていうの? え ? 」
ギンはしかし、何も答えない。彼の目は再び、水面へ向いた。
「ギン、何か言いなさいよ! 」
ミンは怒鳴った。なぜか彼女の声は震え、鳴き声も混じったような感じであった。
だが、ギンはそれも無視して跳んだ。
ザッポーン……………
豪快な、力に満ちた水音が再び響いた。
ミンは何を思ったか、彼に続いて跳ねた。三度、四度跳ねてみた。ギンの半分の高さしか跳べない。疲れた。激しくエラを動かして息をしながら、
「何がおもしろいのよ、こんな疲れるだけのことして。馬鹿じゃないの!……」
それでもギンは無言で跳び続けている。
ミンは悔しさに身を震わせながら、ついにその場を去っていった。
19
ギンが再び闇討ちにあったのは、それから間もなくである。
ギンが跳び始めて約一ヶ月。周りのものたちも、その行動には慣れてきていたが、一方で若いものの中に反感が芽生えてきていた。
「あの野郎、また変なことはじめやがって!……」
「いつもジャボンジャボンじゃ、まったくイライラするぜ。」
「池の平和や統率を乱すのはいつもヤツだ。」
そんな、声が日増しに高まってきたのである。
リーダーのデンは比較的平静を保っていた。気性の荒い彼としては意外なほどである。だが、それは決してギンに対する、寛容の精神からではなかった。彼はじっと時期を伺っていたのである。
「そろそろ、出番か……」
周りの若い鯉たちの不満を聞きながら、デンはほくそえんだ。
ギンへの反感と制裁への支持がみなの中に固まれば、その時こそ、堂々とギンを抹殺できる。邪魔物を始末できるのだ。
そして、ついにその時がきた。
「デンさん、おれたちもう、我慢ができねえ!」
若いものが四、五匹連れだって月の無い、小雨の降る晩訪れてきた。
「ついさっきまでヤツは跳んでいやがったが、落ち着いて餌をとることもできない。今夜、やつに、いやっていうほど分からせてやりたいんだが、どうでしょう?」
「そうか、お前たちの気持ちはもっともだ。おれも同じように感じていたよ。ほかのみんなもきっと分ってくれるだろうよ。
ただし、あとで面倒なことにならないようにしてくれよ。」
デンはにやりと笑った。
「なにごとにも限度ってものがあるからな……」
ほかの連中も不気味に無言でわらった。
ギンは寝ばなを襲われた。徹底的に痛めつけられた。夕方降り始めた雨はその頃には激しく降りしきり水面を叩きつけたので、全く物音は聞こえず、騒ぎに気づいたものはなかった。ギンはやがて意識を失った。それでも制裁は続き、腹びれが一枚とれてしまった。
一時間後ギンは腹を上にして水面にポッカリと浮いた。暗闇の水面に白い腹を,小降りになった雨に打たせて漂っていた。静かであった。だれも助けに来なかった。気づきもしなかった。漆黒の闇の中で、ギンは初めてひとりになって安らぎの時を過ごしていた。
彼は意識を失っていた。そして夢を見ていた。苦しいとは感じなかった。彼はまだ見ぬ河にいた。話に聞いた冒険をすべてやった。
時には大きな鳥につつかれそうになったり、獣の爪につかまりそうになった。ひやっと肝をつぶしたが、しかし、ゆかいだった。
トビに襲われて、思いっきりすばらしいスピードで彼は逃げた。とっくに敵はあきらめていても、彼はそのまま全速力で泳ぎ続けた。すばらしい速度で、彼の体はどんどん軽くなるばかり。
そのうちに波の上に星が見えた。彼は思い切って跳んだ。すると体が宙に浮いたと思うや、そのまま泳ぐことができた。ギンはひたすら尾を振って銀河に向かってどこまでもどこまでも昇っていった。やがて気がつくと周り中に大きな星々が浮いて、赤く、青く黄色く、様々に輝いている。きらめく無数の星に囲まれて星の海を泳ぐギンは幸福以外、何も感じなかった………
20
ギン、ギン………
揺り動かされて、彼はうっすらと目をあけた。
ギン、ギン…… !
遠くに聞こえていた声が次第にはっきりと聴き取れた。
「ああ、よかった! 気がついた! 」
ミンの声であった。
「もう、死んでしまったかとあきらめていたよ。」
ピチの声も聞こえた。
「さ、早くこっちへ。この水草に隠すんじゃ。」
シンが二匹に指示した。
「そうか、おれはまた襲われたんだった…… ああ、体中が痛む。これでまたしばらくは跳べないではないか……」
ギンの魂はもはや恐れを知らなかった。恐るべき信念が彼をしっかりとつかまえて、離そうとはしなかった。こんな時にも跳ぶことだけを考えているギン。他の三匹は想像以上に強固なギンの意志の力に圧倒されてしまって、口をきけなかった。
その姿はこれまでのギンのものとは違って見える。ふたまわりほどでかくなったように見え、なにかしら高貴な雰囲気すら漂わせていた。
シンはなぜか涙がにじんできた目で、いとおしそうに彼を見た。
「さあ、ギン、ここでゆっくり休むがよい…… ここはお前の休みどころ、お前の母のしとねじゃ…… ゆっくり眠るがよい…
お前はもう寂しいことはない、もうひとりではない……」
柔らかな水草にいだかれるように無言でギンは眠りについた。
その傷ついた体を眺めながら、ピチはしくしくと泣き始めた。ミンもなぜか涙があふれてしかたなかった。
ひそやかで慈愛に満ちた三匹の涙はギンの体をいたわるかのように温かく彼を包んでいった。
21
「ほほう、やっこさん、また跳び始めたね!」
殿さんがシンのもとを訪れたのはそれから四日後。
「そうじゃ、なかなかたくましいやつじゃ。」
そういってシンは高らかに笑った。それは心底から出る笑いだった。殿さんはそれを見て、
「ははは…… おまえさんが、それほど嬉しそうに笑うのは初めてみたよ。よほどあの子がかわいいんじゃな……
それはそうと、大丈夫なのかね? また、あんなことをしていては、再び襲われるのではないかい…… ?」
シンはちょっと黙ってから、
「一応、手はうった。わしは長老の所にあの日出かけた。」
「長老!」
「そうじゃ。」
「彼に逆らえるやつは、まだおるまいの。今の大将じゃって、長老の手助けがあってこそ,今の地位があるのだから。」
「そうじゃ。長老は強い。やつにとって恐ろしいものなど何もない。たとえ死でもな………
しかし、その長老が一つだけ恐れていることがあるのじゃ。」
「長老の恐れているもの……」
殿さんは首をかしげた。
「それは、このわしじゃ。」
「おぬし? おぬしほど心優しいものがなぜ恐ろしいことがあろうか。」
「わし、というより、わしの秘密なんじゃよ。」
「…… なるほど、わかった。」
「わしは、ギンがかわいい、いとおしい。もはや、あの子が傷つけられるのは耐えられんわ。それで長老にこう言った、『これ以上若い衆がギンの邪魔をするならば、わしはみんなを集め大河の話をする』とな。」
「もしそうすれば、みんなおかしくなってしまうじゃろうなぁ。今のギンのようにジッとなどしておれなくなるじゃろう。」
殿さんは真顔で、
「そうしたら、この池の平和はおしまいじゃろうな…… 」
「そうじゃ…… 」
「しかし、…… 」
殿さんが、はっとして言う、
「もしかして、そのお前さんを……… 」
「わしが消されるかもしれないというわけじゃな。」
「そうじゃ。大丈夫なのかい? 」
「わしはそれも覚悟で出かけたのじゃ。長老に言った。『もしギンを抹殺するならこのわしも殺してくれ』とな……」
「おぬし、それほどの覚悟であったか。」
老いた蛙の目から涙が滲んだ。
「ははは、心配するな。長老はこう言った。『お前の気持ちはよく分った。なぜわしがお前を殺すか。孤独なわしにとって唯一の友をなぜ』とな。」
「そうか、……そうか。」
22
それからは平穏に日々は流れていった。ギンは何者にも邪魔されることなく跳躍に励んだ。
なぜ、ギンの敵がいなくなったか。それは長老の号令が下ったからである。シンが出かけた翌日の夜、長老は池の一族を集めた。
「わしは満月の揺れる光に誓って言う。ギンはある特別な仕事のために跳んでいるのじゃ。これは神様との間に交わされた極秘の任務である。これまでわしとギンの間だけの秘め事であったが、それを妨害する輩が現れたので明らかにした。任務の内容はいずれ明らかになるであろう。それまで彼の邪魔は許さぬ。放っておいてもらいたい……」
もちろん、この長老の頼みに異議を挟むものはなかった。みな、無言でうなづいて解散した。しかし、若きリーダー、デンだけは歯ぎしりしながら一晩中泳ぎまわっていた。
もうひとり、長老の言葉に疑問をいだいたものがあった。ミンである。
その次の日の昼過ぎ、彼女はそっとギンの近くに寄っていった。彼は、午前中の練習を終えて昼の休みをとりながら、ちょうどシンと話しているところであった。
「どうしても高さが足りないんだよ、シン。確かに他のものより三倍も高く跳べるようになった。しかし、この池の石垣はあまりに高い。俺はまだオカを覗いたことはないんだ。やはり無理なんだろうか、この俺には……」
ギンの言葉は沈んでいた。
「なるほど、たしかにこの壁はたかいのう……」
シンの声も張りがない。
「ちくしょう! もう少しなのだが! いつになったら河に行けるのだろう。」
ギンは悔しそうに尾びれで池底を叩いた。泥が舞い上がり、しばし水は濁った。
二匹はしばらく無言でいたが、やがてギンが言う。
「叩いてみようか……!」
「うむ、それもよかろう!」
シンが明るく答えた。
それからである。ギンが不思議な跳び方を始めた。彼はいったん尾で水底を蹴るように叩き付けてから水面に向かって跳躍した。初めはなかなかタイミングが合わずバランスを崩して高くは跳べなかった。しかし、十回、二十回と回を重ねるにつれ、次第に高く跳んでいった。
やがて、二日後の午後。
「やった! シン、上が見えたよ! 石垣の上が! 」
ギンの叫びが聞こえた。
それは見事な跳躍であった。シンも今までこれほど高く跳んだ鯉、いや、魚を見たことがなかった。ギンの体は水を飛び出したとみるや、なかなか落ちては来なかった。まるで数瞬間空中に止まったように見えた。それほど滞空時間の長い跳躍であったのだ。
シンは目を疑った。呆然としてその姿を眺めていたが、やがていつも以上に大きい水音に驚かされて我に返った。
「どうだ、シン! ついに陸を見たぞ! 」
シンは感無量で、ただ頷くばかりであった。
ギンは若々しい高笑いを繰り返しながら、何度も何度も陸をのぞいていた。
23
「ねえ、シン…… ギンはどこにいこうとしているの?」
シンがいつもの石の下にもぐりこんで寝ようとしていると、突然、若い雌の声が聞こえた。ミンが水草の間から姿を現した。
「ミン! どうしてここへ?」
「わたしは知ってるの。この前話を聞いたの…… ねえ、ギンは
どこへ行こうとしているの?」
かすかに差し込んでくる月の明かりに、こころなしかやせたようだ、そうシンは感じた。
ミンの様子には浮いた雰囲気はなく、切実な思いが全身から立ち上っていた。ただごとではない、そうシンは感じた。
「ミン、お前は知っているのじゃな……?」
こくっと彼女はうなづく。
「ねえ、いったいどこへ行こうとしているのよ…カワってなあに…!」
鬼気迫るミンの言葉にシンは混乱した。しかし、話すわけにはいかぬ。長老との固い約束がある。シンは沈黙を守るしかなかった。
しばらくシンをにらむように凝視していたミン。しかし、シンの決意の強さを見取るやいなや、ミンの口からうめき声がもれた。みるまに彼女は深い深い絶望と悲しみに包まれて泣き始めた。全身を震わせて暗い草陰で鳴咽するその姿ははたからは見ていられないほどであった。ミンの鳴咽はいつまでもいつまでも続いた。シンの沈黙も続いた。そしてシンも涙を流していた。
24
次の朝早く、池の鯉たちは、いつもと違う水音に気づいた。
それは、これまでの力強いギンの跳躍とはかけ離れた、か弱い響きであった。ポチャン、ポチャン…… そんな音が途切れとぎれに聞こえてくる。
池の鯉たちは、みな不思議がった。ギンの跳躍には、みな不愉快に感じながらも、その見事さを認めざるを得ないものがあった。デンですらあの半分も跳べやしない。
「だれじゃろう… また、ギンのような物好きが現れたのか。」
そんな風にだれもが思った。
しばらくして、池中に衝撃が走った。跳んでいるのはミンだという情報が駆け巡ったのである。
「ミン、何のまねだ!」
デンが真っ先に駆けつけておろおろしながら問いかける。しかし、ミンは無言でひたすら跳ね続けた。たくさんの鯉たちが見守る中で、ミンは狂ったように跳び続ける。
そこへ、ギンがふらりと現れた。どうしようもないいら立ちにかられて、デンが食ってかかった。
「ギン、きさまがそそのかしたのか!」
彼と、その取り巻きがギンに突進しようとした時、
「止めんか!」
大将が一喝して止めた。
「止めんか。やつに手をだすな!」
デンはギリギリと歯ぎしりしながら、手下を引き連れて去っていった。
ギンは何も言わなかった。ただ、不思議そうな一瞥をミンに送っただけである。やがて、彼が別の場所で跳び始めた音が皆の耳に入ってきた。もう、だれも何も言わなかった。ただ、二匹の不可解な行動に目を丸くしたまま、やがて自然と解散していった。
疲れ果てて水底にへばりついているミンに、シンがそっと近づいて言葉をかけた。
「おまえにはそうするしかないのじゃな……?」
ミンはかすかに頷いた。
「教えてもらえないなら、理解するしかないわ…… ギンと同じように感じるまで、わたしは跳ぶわ……」
そう言ってミンは深い眠りに落ちていった。
25
ミンは本気であった。彼女はギンが跳び始める時分になると現れギンの隣で跳んだ。あれほど饒舌であったミンだが、このごろは一言も発しないで現れては跳び、そしてくたびれ果てて消える。一週間もすると彼女の鱗はボロボロになり、やつれはてていた。
デンが毎日現れてミンを説得した。止めろ、やめてくれ、…… しかしミンはまったく取り合わないのだ。
あの豪傑であるデンが、最後には涙声で哀願するのだ。
…… 頼む、ミン、そんなことはしないでくれ……
シンはその様子をそっと眺めて、若いデンの思いにもまた心を動かされるのだった。真剣にミンを求め、なりふりかまわずに懇願するデンの姿もまた純粋であった。
しかし、デンの生き方に希望はない。あの二人の行動の意味を理解しようという意志も可能性もないのだ。すでにあの二人の意識はデンの届かない所にいるのである。
「ギン、きさま、いつか思い知らせてやる!」
ミンにつれなくされたデンはときに、ギンに向かって悪態をつきつき、帰る。そしてやり場のない怒りを持て余して彼は明け方までうめきながら池を徘徊するのであった。
26
「シンよ、相談があるのだが……」
ある日の夕暮れ、シンが水に差込む真っ赤な夕日を楽しんでいるとギンがふらりと現れた。
「なんじゃ?」
改めてギンを眺めると、ギンの巨体に驚かされる。驚きながら、そしてそのたくましさに笑みを浮かべながら、シンは優しく答えた。
「実はどうしてもうまくいかないことがある。石垣を飛び越えるだけの高さは充分に跳ぶことができるようになったが、方向が悪い。」
つまり、跳んでも陸上に向けて体を運ぶことができず、結局また池に戻ってしまうというのである。
「ふーむ、… なるほどのう……」
これはシンにもどうしてよいやら見当がつかなかった。
「なるほど、なるほど、方向がのう……」
ひげを奇妙にくねらせながら同じことを繰り返すシンの様子を見て、ギンはガッカリし何も言えず、ふうっと泡をこぼすだけだった。
「すまんのう…… このわしにはどうしてよいやらいっこうにわからんわい……」
「いや、いいんだ。これはやっぱり自分で解決しなければいけないことなんだ。」
ギンは気もちをきりかえて、さわやかな笑顔で答えた。
実際、今のギンの跳び方では、あの高い石の壁を越えることはできなかった。確かに、水底を尾で叩くことで彼は充分な高さを得ることができるようになった。これは、今まで鯉族が体験したことのない、驚くべき高さである。表には出さないが、ここの住民の中にもそのことについては、ため息をつきつき感心しているものがかなりいた。
「ギンが大空に向けて力強い跳躍を見せるたび、なぜかうれしくなっちまうんだ。」
「ああ、おれもそうだ。なんとなくワクワクして、いい跳び方すると、やった!って思わず叫んじまうよ。」
「なんのために、ああして跳んでるのか知らねえが、でも、これほどがんばってきたんだから、やつの任務をかなえてやりたいもんだなあ……」
こっそりとではあるが、こんな会話がそこかしこで交わされるようになったのである。
しかし、ギンの今の跳び方では、方向を変えられないのだ。垂直に力強くとべるようにはなった。しかし……
まだまだ大河には遠い距離があった。
27
ギンは悩んだ。こんなこと続けていても永遠にオカには上がれないではないか! 自分は月に行こうとしているのではない。ヨコに行くにはどうすればいいのか、オカに上がれるのはいつのことか…
シンに相談して何の手応えもなくて、実はギンはかなり落胆していた。甘えとは分っている。だからシンを責めるつもりはない。分ってはいるが、しかし、出口をみつけられないイライラから、彼は少し、ヤケを起こしていた。彼は初めて練習を休んだのだ。
その日、いつまでも練習場にギンが現れないので、ミンは彼の姿を捜し求めてくたくたになった。半日ほど泳ぎ回ったあげくに、ギンのねぐら近くの岩陰でふてくされたようになって間抜けたような泡を立てて昼寝している彼を見つけた時にはかなり腹を立てた。
「ギン、あんた何よ! なにしてるのよ。」
半分涙声のミンの声を聴いても、ギンはただ一瞥をくれただけであった。かなり大きくなった、(とは言っても、中くらいのフナみたいなものだが)ピチがエイッ!とばかりギンに体当たりを食らわした。しかし彼の巨大な体は少し揺らいだばかりで他に何の反応も示さなかった。
「ギン、ギン、何か言ってよ。…… わたしは何もかも捨ててあんたの世界に跳び込んだのよ。何も分らないまま、理由も目的も知らないまま、あんたの跳躍に長い間つきあってきたのよ。……
それをいまさら何? わたしは一体どうなるの? 」
ミンは鳴咽した。ピチもその隣でしくしく泣き始めた。そしてピチは「ギンのバカ!」と叫んで、泳ぎ去った。
このとき初めてギンの心は動いた。。
そうだ。確かに最近がんばってこれたのはミンの存在があったからだ。ともに跳ぶ者がいてくれたからだ。疲れた時、励ましあってきた者がいた。苦しいとき優しくいたわりあった者がいた。
同じ跳ぶのにも、互いの高さを認めあい、賞賛しあって励みにしたほうがずっと楽しかった。その大切なパートナーが今切なく泣いている。……………………
ギンは体を反転しミンを見つめた。日々の運動によって引き締まったその姿をしげしげ眺めると、今さらながら美しいと思った。
ギンは初めてミンを美しいと感じた。いとおしかった。その宝石のようなミンが切なく体を震わせ泣いている。
「ミン … 」
ギンは声をかけた。
「すまなかった、ミン。俺は少し疲れただけなんだ。また明日から跳ぶよ。…………… だが、今日は許しておくれ。
そうだ、ミン。俺がなぜ跳ぶかをまだ話していなかったな。さんざん迷ったが、しかしおまえが聴く気があるなら、今日はそれを話そう。
どうだい ……………… ? 」
それからもしばらくミンは泣いた。ギンは一晩中でも待つつもりで彼女を見守った。
そして、一分ほど後にミンは泣くのをやめ、じっとギンをみつめ、そしてほほえんだ。ギンはゆるりとヒレを動かして彼女に優しく寄り添った。
28
ギンは語った。河の話。大河の話。シンが教えてくれた、心の躍るような冒険の数々。様々な生き物たちの様子。「流れ」というものの辛さ、楽しさ。今まで何百回となく頭の中で想像を繰り返してきた場面を、ギンはまるで見てきたように生き生きとミンに語った。
ミンは、ギンと、広い広い河をどこまでも昇ったり、また下ったりする自分を思い描いて、目のくらむような喜びにひたっていた。そんな無限の世界がこの世にあるなんて、思いもよらぬことであった。彼女は、美しいマス達と会いたいと願った。虹色に輝く彼らと泳ぎ比べをしてみたいと思った。
銀河をギンと泳ぎ回る姿を想像し、ミンは夢のような数日間を送った。これほど深い喜び、偉大な希望をギンが抱いていること、それを自分が今、共有できたこと、同じ夢に向かってともに歩んでいること。そのことだけで、ミンがどれほど幸福であったか! それは他の鯉たちには思いもよらぬものであった。
29
ミンを愛することでギンの勇気は再び復活することができた。
彼はまた、日々の鍛練を始めることができたのである。少し休んだことが幸いしたのか、彼は以前よりいっそう高く跳ぶことができた。それは周りの鯉たちを驚かせたばかりでなく、彼自身をも驚かせた。もはや、この池の中で彼は何も恐れるものはなかった。ギンはどの雄よりもたくましく、巨大で、近寄りがたい威厳を備えるようになっていたのだった。
さて、しかし、ギンの悩みは解決したわけではなかった。
彼の、陸に向かって方向を変えたいという問題について解決策がなかなか見出せずにいたのである。
「どうしたんじゃ、ギン。
ある日の午後、ギンが休憩がてら、跳ぶのを止めてもの思いにふけっていると、殿さまガエルが声をかけてきた。
「何を深刻に悩んでおるんじゃ?」
「…… ああ、殿さんか。じつはどうしても分らんことがあるんだ。」
彼は今の問題を説明した。高く跳ぶことはできるようにはなったが、どうしても方向の変換がうまくいかないこと、陸は跳ぶたびに見ることができるが、どうしてもそこに行き着くことができないこと、その苦しみ、いらいら……
「ミンもずいぶん高く跳べるようになった。どんな雄よりも高く跳べる。俺は彼女と共に新しい世界に行きたい。もう俺は一人ではない。それはずいぶん幸せだ。しかし、あちらに行く最後の手段が見つからないんだ。どうしたらいいんだ、いったい!」
「そうか、そうか。そいつは辛かろうのう…… 」
しかし、殿さんにも、解決策は見当もつかなかった。あのギンの巨体を空中で自在に方向を変えさせるなんて。最近は殿さん自身、年老いてきて、その蛙としては大きい図体を持て余しているというのに。
「ギンよ、わしにも今はどうしてよいか、皆目わからんよ。一難去ってまた一難というところじゃのう…… 川は遠いのう……
ところで、今はおまえにチョッカイ出す奴もおらんじゃろうが、デンは一体どうしておるんじゃ?」
殿さんは、ふと思い出して尋ねた。
「さあ、俺には分らん。そう言えば最近姿は見てないよ。」
「そうか、どうも変な行動をとるようになったという話じゃが…」
「なぜ? あれほど羽振りよく、肩で風切っていたじゃないか。」
「なぜ?」 殿さんは思わず微笑んだ。
「いったい、だれのせいじゃろうな… ワハハ……」
「おいおい、殿さん、その含み笑いは何なんだ? 」
と、その時、
「おおっと、噂をすれば何とやら、じゃ。デンが現れた! 」
ギンが振り返ると、あちらからデンがフラフラと泳いでくる。
その姿はしかし、以前のデンとは似ても似つかぬものであった。体は痩せ衰え、目は空ろでウロコのつやは全く失われていた。
それでも、ギンは少し身構えた。これまでのいきさつを考えればそれは当然のことである。しかし、デンはギンに気づいてはいないようだった。やがて、大分近くになって初めてギンの存在に気づいて、少しハッとしたように泳ぎを止めた。目と目が合い、ギンも緊張した。だが次の瞬間、フッとデンは目をそらしたのである。ギンはその無気力ぶりに唖然とした。
デンは何も言わず、ギンの横をすり抜けていった。腰巾着の手下が2匹、横目でにらんだが、それも及び腰の単なるハッタリにすぎなかった。
「彼は病気なのだろうか、」などと思いつつ、連中をやり過ごしたその時である。
「どけ! ジジイ ! 」
取り巻きの声が響いたかと思うと水が揺れた。二匹が殿さんを見つけてつっかかって行ったのである。
「おっとっと…! 」
殿さんは機敏に身をかわし、水面に向けて逃げ出した。若い鯉が今まさに食いつこうとした瞬間、彼は水を突き抜けて池の中に顔を出している黒石に飛び乗ったかと思うと再び跳躍し、ピョンと岸辺にたどりついて、ケロケロッと二匹を嘲笑った。まさに電光石火の早業であった。
二匹は歯ぎしりして悔しがったが、ギンはおかしくて背びれを震わせて大笑いした。デンはしかし、この出来事にも表情ひとつ変えないで力なく去っていったのである。ギンには不可解なまま。
「ギンよ、デンにはくれぐれも気をつけよ。」
殿さんはそう言い残して、月夜の草むらに姿を消した。
ギンはしばらく、ひとりで笑っていたが、数分すると黙り込んだ。彼の顔からは笑いが消え、なにやら得体の知れない光が眼の中に輝き始めた。彼は物思いににひたったまま、じっと動かなかった。
やがて、日も傾きかけて赤い夕日が池に差込み始めた頃、ミンの待つ岩陰へと静かにもどって行った。
30
次の日からギンの新たな挑戦が始まった。
彼はついにヒントをつかんだのである。それは昨日の出来事からだ。跳んでから方向を変える方法、それは殿さまの動きそのままを模倣すれば良いのであった。つまり、彼はいったん石の上に飛び乗り、そこからもう一度、尾のバネをきかせて陸に飛び移ろうというのである。しかし、そんなことが魚であるギンに可能であろうか。昨夜、彼はミンにこの計画を話してみた。それを聞いて、ミンは思わず吹き出してしまった。
「そんな、カエルさんのまねが、手足のない私たち鯉にできるわけがないよ! 」
そういって、ミンは美しい背ビレを震わせて笑ったのである。ギンは、少し自信を無くして、
「そうかなあ………」
とつぶやいて、そのままもう何も言わずに食事をし、眠りについたのだった。
しかし、夜が明けて、彼にはその手しか無いように思われた。これまで不可能を可能にしてきた自分だ、きっとやれる、そういう自信が一晩明けたら蘇ってきたのだった。
彼は再び、猛烈な訓練を始めた。
石に飛び乗るのは簡単であった。彼の跳躍力の三分の一で乗れるのだ。問題はそこからである。バランス良く尾で立って、そしてまた力をためて陸の方へ跳躍すること、それをタンターンと一瞬のうちにやり遂げることは至難の技である。
ギンはその身を何度も石に打ちつけ、叩き付け、ウロコは剥げ、傷だらけになっていった。時にはあまりの痛みに耐え兼ねて気を失うことも度々あった。ズルズルと石からずり落ちる大きな体をミンが必死に受け止めて介抱するのだ。彼女はそっと水草の間にギンを連れていき、そして声をかみ殺して鳴咽するのだった。
「なぜ、こんな馬鹿なことをするの? …… なぜ、こんな苦しい思いをしなければならないの? …… そんなにしてまであなたは夢を叶えなければならないの? わたしと一緒にここで平和に暮らしてもいいじゃない …… 」
ギンはただ深い眠りに落ちていくのみであった。
眼がさめれば、ギンはまた訓練を始めた。
ミンもしかたなしに、同じような跳び方に挑戦し始めた。なかなかうまくいかない苦しい日々が続く。しかし、それでも一週間ほどすると光明が見えてきた。ヨロヨロしながらも、なんとかバランスを保って、石に立ち上がることができるようになった。ミンも二、三日遅れてできるようになった。ふたりは身を寄せて二人きりで泣いた。無言でお互いのこれまでの努力を称え合ったのだった。
後はうまく陸に向けて体を飛ばすことをマスターするだけである。
31
夢はなかなか叶わぬから夢というのであろうか。
事件が起きた。
ミンは夕暮れてから、一日の疲れを癒すため、また、いよいよ実現しそうな川への想いを深めるため、同時に喜びを噛しめるために池をのんびりと遊泳していた。心地よい水温と疲れのために、半分は眠ったような夢見心地の散策であった。
薄暗闇の中にゆらりと一匹の影が現れた。次第に近づいてくるその影にミンは不安を覚えた。
「ミン、おまえはどこへ行こうというのだ…… 」
デンがやせ衰えた姿で現れた。その眼は焦点の定まらぬ、なにかしら濁った感じで、死相すら感じられた。
「俺をおいて、どこへ行こうとしているのだ…」
再びデンは尋ねた。ミンは次第にうっとうしさを感じ、
「あそこへいくのよ。」
そうひとこと答えた。
「あそこ? ミン。この俺以上に良いところがどこにある? 今もこれからも、俺は一番だ。きっと俺は大将の跡継ぎになる。だれも俺の邪魔をする奴はいない。俺はこの池を命をかけて守るつもりだ。平和と秩序と安定と… ありとあらゆる幸福の条件を、俺は実現させていくつもりだし、それができる。その俺に愛されて何が不服なのだ…? 」
デンは次第にヒゲを震わしながら言い募る。しかし、今、ミンはデンの言葉に迷うことはなかった。
「あんたはたしかにその力を持っているわ。本当に雄としては最高の力を持っているわ。でもわたしはあなたに頼らない。わたしには自分の力がほしいの。ひとに餌を運んでもらいたい雌はたくさんいるわ。それが雌の力だと… あんたはそういう雌を養ってあげて。でもわたしはあんたに餌をもってきてもらいたいと思わない。わたしは自分で取りにいきたいの。その力を持ちつづけたいの。」
「なんという傲慢なやつだ。雌はみんなお恵みの時間は俺の近くにきて、俺がニラミをきかせている間にたらふく食って満足するというのに。ほかの雄どもが腹を鳴らして、我慢しているうちに悠々と食事をすることを何よりの快楽としているのに! 雌としてこれほどの名誉がどこにある! 」
「わたしがこの世に求めているのは餌ではないのよ。楽をして食べて寝るだけの一生なんて… 手軽な快楽ではない。なにかよく分らないけど、もっともっと深い喜びがあるのよ……」
ミンは最後、自分に言い聞かせるような呟きで答えた。
「ギンはわたしが跳ぶのを助けてはくれない。それはできないことだもの。わたしがギンと同じように苦しみ、傷つき、気を失いながら跳ぶのを彼は見守ってくれるだけ。そして励まし、助言をし、すこしでもうまくいけば自分のことのように喜んでくれる。それも言葉は少ないわ。ただ、本当に深い輝きをもった瞳でわたしを暖かく見つめ、いっしょに寄り添って眠るだけ…… ああ、でもそれがどんなにわたしの喜びか! 自分の苦心と、壁を乗り越え目標を達成する喜びを心底から分かってくれるひとがいる…… それは同じ困難を体験し乗り越えた者同士でなければ決してわからないわ。」
ミンは涙ながらにそう語るのである。
「わたしはどこへ行くか分らない。そこが幸せの地であるかどうか、そこへたどりつけるかどうかすら、分らない……
でも、今はそんなことはどうでもいいの! ギンと共にがんばることが幸せなの! あのひとも同じだわ。これまでひとりぽっちの、孤独な戦いの中で彼は気持ちがすさんでいた。出会った頃の暗い眼が今でもわたしには忘れられない…… 孤独の闇の恐ろしさは計りしれないものよ。そんな中ででも、ギンは耐えて耐えて耐え抜いてきた。もうあの人を一人にはできないわ。あのひとはわたしと一緒に跳ぶようになって、やっと救われた。生まれてきた喜びということを初めて知ったと言ってくれた。わたしも彼から生きる力をもらった。生きる意味を知った。
そんな彼からわたしはもう離れられないわ。彼がより高くを、より遠くを目指している限り、わたしもギンと行く!」
デンは、ミンのいうことの意味をまったく理解できなかった。何を言ってるか、彼の価値観からは決して理解されることはなかった。
彼はただ混乱していた。この自分に逆らいながら、いささかの恐れも無く、毅然とした言葉でとうとうと語るミンの姿には何か近寄り難い神々しさがあった。
デンの眼はうつろとなり、ただ「なぜだ…… なぜだ……」とつぶやきながら辺りを泳ぎ回っていた。
ミンは静かにその場を離れた。もはや埋めようもない溝がデンとの間に、いや、ギンの他すべての鯉たちとの間にあることをまざまざと悟った。そして今の自分にはギンしかいないことを改めて胸に刻んだのである。
去って行くミンの背後に、デンの力無い呟きが聞こえていた。
「離したくない…… おまえを離したくない……」
31
その夜、ギンはシンのもとに出かけ、遅くまで話こんでいた。
「新しい跳び方も大分板についてきたようじゃのう。」
「ああ、あとは方向性と、そして、いつ決行するか、だけの問題となったよ。」
「殿さんには感謝せねばなるまい。ミンのほうはどうじゃ。かなり真剣に取り組んでおるようじゃが……」
「大丈夫。彼女の意志は本物だ。体力的にも充分。おれが驚くほど進歩が早いよ。今の俺にはミンが心の支えだ。彼女抜きにはこの計画は考えられないよ。」
「ワハハ… 聞かせてくれるわい! 」
語らいはいつまでもつきなかった。
シンが哄笑している間、ミンは昼の疲れのためにいつもの岩かげで熟睡し、近い将来たどりつくであろうカワの夢を見ていた。何度も想像し、何度も夢見たカワ。もう少しでそこにたどりつけそうなのだ。
そのミンの近くに闇にまぎれていくつかの影が忍び寄ってきた。
そして、ひときわ大きな影が突如ミンの体に猛烈な一撃を加えたのである。ミンはあまりの衝撃に目覚めることなく気を失いそうになった。二度、三度どころではなく無限に体当たりは繰り返される。それは、眼を背けたくなる情景であった。数度の攻撃を受けた時点で、すでにミンの意識は失われていた。それでも続く、永遠とも思われる執拗な攻撃。夜中に突如始まった、不気味な重い衝撃の波紋は一部の鯉たちを目覚めさせはしたが、言い知れぬ不安から誰も身動きできずにいた。ミンの体はすでに力を失い、ただ意味不明の暴力のなすがままに夜の池の中を縦に横に、上に下に舞い続けた。その都度剥げ落ちた鱗が一枚二枚と水底に沈んでいった。
もしまだ、ミンに意識があったとしたら、攻撃者の呟きを聞くことができたであろう。
「おまえを離さない…… どこにもやらない…… どこにも行かせないぞ…… 決して、…… 決して…… 」
次の早朝、不気味な沈黙が池を支配していた。すべての鯉が一点を見つめ、息を潜めていた。鯉たちの中心にあるもの、それは無残なミンの死骸であった。あれほどの鮮やかな緋色が白濁し、所どころ鱗が剥がれ落ち、傷だらけで腹を上にして浮いているミン。
ピチだけが一匹、涙にくれてその遺骸に寄り添っていた。
静かであった。だれも何も言えず、これから何が起こるのがまったく予測ができない不安にさいなまれていた。
実は、その場にいない鯉が二匹いた。ギンと、そして、デンであった。デンはすでに長老の指示で屈強の若い鯉十数匹にある岩陰に隔離されていた。とは言っても、もはや彼には正常な判断力はなく、ミンを遠くに行かせずに済んだことの満足感に満たされているだけであった。監視している鯉たちは最近までの自分たちのリーダーの、あまりに変わり果てた姿に何とも言えない想いをいだいていた。
32
ギン。
彼こそは復讐の鬼と化してデンを探し回った。鯉たちは、未明に何十回となく池中を疾風のように駆け巡るギンに叩き起こされたのである。そしてこの悲劇を目の当たりにしたのである。
「ギン、待て! 待ってくれ、はやまらんでくれ!…」
長老と、そしてシンが必死にギンをおし留めようとした。しかし、ギンの巨体を止められるものなど、この池の中にだれも存在しなかった。二匹は息も止まるかと思うほどギンを追い、ヘトヘトになった。もはやギンを止めることは不可能と悟ったので、デンを隠すしかないと判断した。それで若い者に命じて、長老と一部の幹部しか知らない洞穴へとデンを隠したのである。
「デン、どこだ! 出てこい、殺してやる! どこへ隠した?
さっさと出せ、…! 出さんか!」
ギンの呪いの咆哮が長い間続いた。他の鯉たちは皆、震え上がった。これほど恐ろしい、怒りの声をこれまでだれも聞いたことはなかった。ギンはひたすらデンの姿を追い求めていた。
やがて、シンがギンの脇に寄り添った。
「ギン、どうかこらえてくれ! おまえの気持ちはよく分る。切なかろう、苦しかろう、悔しかろう! だが、どうか今はこらえてくれ。どうか冷静になってくれんか!……」
ギンはシンを睨みつけて言う。
「冷静になれだと? こらえよだと? ミンがいったい何をした! なぜミンが殺されなければならんのだ! ミンが一体なんの罪を犯したというのだ!」
ギンは疾風のように泳ぎ続けながら吠えた。
「その通りじゃ、ギン。ミンには何の罪もない。まったくいわれのない死を迎えてしまった。気の毒じゃ、不憫じゃ!しかし、ギン、今はどうかこらえてくれ!」
「デンはどこにおる! 殺してやる。すぐに叩き潰してやる! もし邪魔するやつがいるなら、シン、あんただって容赦しないぞ!」
「デンはすでに身柄を確保してある。長老が責任をもって奴を裁くと言っておる。どうか、長老を信じてくれ! 彼の裁きを見守ってくれんか、ギン! 」
シンは必死に訴え続けた。
「デン、どこだ! 出てこい、デン、八つ裂きにしてやる!…」
ギンは何も耳に入らない。ただ怨みと憎悪に駆られてひたすら池中泳ぎ回った。シンはなおも説得を続けたが、数十分後、くたびれ果てた彼は意識を失ってしまった。
それから三日間というもの、ギンは怒りの炎で目を真っ赤にして池を巡り続けた。
ミンの遺骸は当日の昼には消えていた。みんなは、「きっと神様が連れていってくださったのだ」そううわさしあった。ギンにとってはミンの姿が消えてしまった時はさすがに衝撃を受けたが、しかし彼女の姿が腐敗し醜く崩れていくのを見るのは耐え難い苦痛であったので、みなが言うように神様のもとへ行ったのならそれで良いと感じていた。しかし、決してもどらぬことには変わりない。その苦痛は癒しようもない。デンは絶対に許せなかった。必ず復讐は果たさなければならなかった。
長老は、とにかくこれ以上の混乱は避けたかった。無法は許せなかった。今回の事件は、明らかにデンの失態であり、鯉たちの無言の評決も「デンはやり過ぎた」というのが大方であった。
長老は躊躇しなかった。評議会を開いてすばやく判決を下したのである。すなわち、デンは無期限の監視下に置かれるというのであった。つまり、自由は許されず、常時、十匹程度の屈強の若手に監視されるのである。
「ギン、ギンよ!」
三日目、相変わらず怒りに身を任せてうろつくギンにシンは呼びかけた。
「ギンよ、聞け!」
だが、ギンはギロリと一瞥をくれただけで、過ぎ去ろうとする。
「デンは、長老によって閉じ込めの罰を受けておる。やつはもう二度とみなの上に立つことはあるまい。いわば一生が終わったに等しい。やつはもう何の力も残されてはおらぬ。ギンよ、どうか無益な復讐はやめてくれ。どうか、長老を信じてやってくれぬか、ギン、ギンよ!……」
シンの必死の呼びかけであった、がギンはやはり無言のまま泳ぎ去ってしまった。
「ギンよ、頼む、馬鹿なことはしでかさないでくれよ……」
シンには、そう祈るしかなかった。
一週間が過ぎた。相変わらずギンの怒りは解けず、果てしなくデンの捜索は続く。他の鯉たちは、その執念に身を震わせた。無言であたりを見渡しながら通り過ぎる彼の姿にホッと息をつきながら、いつになったらこの緊張が解けるのだろうと思うのであった。
しかし、この力に満ちたギンも、ろくに物も食べずにさまよい続けて、さすがに衰弱してきた。二週間目に入って,朝目覚めると、彼は動くことができなかった。ギンはとまどった。思うに動いてくれないヒレや尾、気力だけはまだまだ憎きデンを追い求めていても、体が動かない。復讐を果たすこともできないまま、こうして自分も消えてしまうのか、……あまりの屈辱に彼は耐え切れず泣いた。今はギンの人生の目標はミンの仇を討つことだけであった。
絶望感にさいなまれて、二日ほど眠れない夜を歯ぎしりしながら過ごしていたギンだが、さすがに三日目には疲れてうつらうつらとした。
…… ミン、ミン…… 一体、おれはこれからどこへ行けばいいのだ。何を目標に生きたらよいのだ。おまえがいないこの世には、もはや何の価値もない。おまえがいなければ、おれには歩む意味がないのだ…… ミン、ミン、おれは今、おまえのところへ行きたいだけだ……
夢うつつの中で、彼は思った。あれほどの憎しみすら、くたびれ果てた今は心の片隅に追いやられていった。
孤独だった。果てしもない暗闇が再びギンの周りを覆い始めていた。それはミンと出会う前、シンから大河の話を聞く以前の孤独の闇であった。彼をその闇の底から救い出してくれるのは、もはや「死」しかないと感じられた。
「ミン、おまえの所へ行きたい…… ミン、ミン…… 」
それは、冷たく深い湖の底のような悲しい呟きであった。
うとうとと、深い眠りにつこうかと思われた時、ミンが現れた。
深い闇の向こうから、懐かしい緋色がゆっくりと現れてきた時、ギンはすっかり彼女が生き返ったとばかり思った。
… ああ、ミン! 迎えにきてくれたのか… !
ギンは彼女の側に行こうとしたが、泳いでも泳いでも彼女は等距離を保ったまま近寄ることができなかった。
… ミン、どうしたんだ、ミン!
「わたしに引きずられてはいけないわ…」
「なんだって? おれ達はあれほど誓い合った仲じゃないか! おれはおまえの所へ行きたい、連れていってくれ、ミン!」
「わたしはもう死んだのよ。今は、わたしに引きずられてはいけない。あなたは、わたしたちの夢をかなえて。ふたりでは不可能になったけど、わたしのためにも。それがわたしの願い… 」
そう言いおえて、ミンは再び暗闇の中にもどり始めた。その表情は笑顔とも悲しみともつかぬ複雑なものであった。
ギンは身動きがかなわない。ただ、ミンの消えてゆくのを凝視するのみであった。
33
「殿さんよ。」
二日ほどたった、月のよい晩にシンとトノサマガエルは語り合っていた。
「なんじゃい……?」
「このたびの一連の事件はこの池始まって以来のことじゃろうのう……」
「そうかもしれん。」
「そしてそのきっかけを作ったのはこのワシじゃ。」
殿さんはやや躊躇して、
「それは確かにそうかもしれん… 河のことは若い者には大変な刺激じゃろうな……」
ゲロッとひとつため息をついて彼は答えた。
「だが、…… おぬしがここに連れてこられたのが何かの縁ならば、ギンとおぬしが出会ったことも運命じゃよ。こうなるように定められていたのだ。何もかも必然なんじゃよ……………」
「………… そうかもしれぬ。だがワシは若いものが愛しくてならぬ。こういう事態になってしまったことが悲しくならぬのじゃよ……」
殿さんはもう何も答えずに、ただ月を眺めていた。
34
「シン……」
夜中に若者達のことをあれこれと思案して眠れずにいたシンは突然の声に驚いて振り返った。
「ギン! どうしたんだ、こんな夜更けに。」
「シン。おれはもうすぐ行く。いよいよお別れだ。」
ついにこの時が来たか…… シンは身震いした。
「いよいよ行くか、そうか!」
シンはギンの目を見つめながら、何度も繰り返した。
「ついては、どういう時期がいいだろう。おれは二、三日跳べば体力が回復する。その後はいつでもいい。」
ギンの言葉に淀みはなかった。真っ直ぐで力強い姿。それは、シンが河で雄大に泳ぎ回っていた若い頃そのままの姿であった。
「そうだな……そうだな…… 失敗は許されんからな。どんな条件がよいか、よくよく相談するとしよう。」
それから四日ほど、訓練の終わったあとに、ギンとシン、それから陸の様子を詳しく聞くためにトノサマを交えて相談が交わされた。よくよく考えてみると、多くの困難が横たわっていることが分った。トノサマが言う。
「この池の端から小川までワシの跳躍で三十跳びじゃ。陸の者にとっては何でもない距離だが、おぬしら魚類にとっては地獄のような世界じゃ。普通に這えば皮膚は焼けるように痛み、ウロコは剥げ落ち、たとえうまく川にたどりついたとしても、瀕死の状態となり、長くは生きられない。何にもならないことになる。」
ギンはそれを聞いて激昂した。
「ならば、結局行くことは不可能なのか? 何のためにおれは跳んできたのだ。 何のためにミンはしんだのだ!」
シンがなだめるように言う。
「いや、待て。必ず方法はあるはずじゃ。決してあきらめるな。智恵こそ困難を乗り越える原動力じゃ。みんなで智恵をしぼろうぞ。」
冬まで待つか、いやしかし、雪の冷たさは、川にたどりつくまでに、ギンの血を凍らせてしまうだろう。……
智恵といっても、道具も何ももたない彼らにはなかなか名案にたどり着けなかった。シンが言う。
「とにかく、草の上を移動する間の、体への傷害を最低限におさえるしかないのだが…… 」
トノサマが言う。
「難しい。おぬしらは魚。水の中の生き物。本来は水の中で生活する存在じゃもの…………」
「陸は陸。川にはならんのう……… 」
……………………………………………………
しばしの沈黙。その後、トノサマが呟いた。
「いや、陸が川になることがあるぞ……」
「なに? そんなことがあるか……?」
ギンが咳き込んで尋ねる。
「雨じゃ! 大雨じゃ ! 3年ほどまえ大雨が降り、川があふれたことがある。この池までは届かんかったが、それでも川幅が広がり、ここから十跳びほどの距離になったことがあるのじゃ。そのときは牧草地も水浸しとなり、人間どもはクルブシまで水につけて歩いておったわい。あれほどに地面に水がかぶれば、滑るように、泳ぐように移動することは決して不可能ではないと思う!」
「なるほど雨か。そうよのう、それを待つしかあるまい、ギン!」
シンが即座に賛同した。ギンは力強くうなずいた。
35
しかし。
あの時の雨は、十年に一度という大雨であった。
ほかにも三者でいろいろと智恵を絞ってみたが雨を待つより良いアイデアは浮かばない。ギンは腹を決めて雨を待つ事にした。
しかし、あいにくとこの年は好天に恵まれていた。人間どもも雨を待ち焦がれているありさま。望むような大雨は永遠に降りそうになかった。ギンはしかし、待つしかないと決めていた。ひたすら跳ぶしかないと、来る日も来る日も練習を重ねていた。その跳躍は磨きに磨かれ美しくさえあった。
だが、一週間たち、二週間たちするうちに彼の目には悲しみが漂ってきた。眩しい朝日が昇ってくると他の鯉たちは喜びと平安に包まれる。しかしギンだけは悲しみの色を増していく。
今、彼は無言であった。もう何も言うまい。ひたすら時が来るのを待つ。もしすがることがあったとしたら、天から見守るミンの助けを祈るだけであった。
大雨はしかし、来なかった。一月というもの、ギンはむなしく跳び続けた。他のものたちは日常の生活に追われ、デンの起こした事件も忘れかけている。運命を眺めるだけの傍観者にとって、一つの事件はあくまでも他人事に過ぎない。その事件につきない変化がない限り、すべては色褪せ、過去に埋葬されていく。このまま大雨が来なければ、もはやミンの死すらも誰も思い出さないようになるのだ。そして、そのように、すべての物事がすすんでいくようであった。
だが、一つだけ進行していることがあった。
「ところで長老。デンはいまどうしておる…? 」
久しぶりに顔を会わせたシンが月夜の晩に尋ねた。
「まだ、監視のもとにある。若いヤツらがひとときも欠かさず見張っておるよ。」
「いつまでそうしておるつもりじゃ・・・?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 」
長老はしばらく沈黙した。
シンはそれをみて長老の苦渋を悟った。そして、デンに対しても彼が深い愛情をもっていることをあらためて理解した。
「デンはまったく餌をとらぬ・・・・・」
やがて長老が呟く。
「今は痩せ衰えて、元気な時の半分の体格になってしまった。」
シンは黙って親友の次の言葉を待った。
「・・・・わしはあのまま、逝かせてやるつもりじゃ・・・・
ミンがあちらでは許してくれるかもしれんから・・・・・・・・」
35
だれもが期待への疲れでギンのことをなんとなく忘れかけていた昼下がり、遠くの方から小さな轟きが聞こえたようであった。もしやと思ってギンが水面に顔を出してみると、北の空に入道雲が現れていた。それは力強く、宇宙の彼方までそそり立とうとでもするかのように、高く高く伸び続け真っ白く輝いていた。
やがてその雷雲が太陽を覆い隠し、あたりは夕暮れ時のように暗くなった。
まるで不吉な日食の時のような胸騒ぎを鯉たちだけでなく、野原の牛や馬、そして人間たちまでが抱いたのだ。
あまりに不吉な空に、池中がなんとなくざわめく。
何が始まる? 何が起きる?・・・・・・・・
確固とした展望を持たないものほど変化に対して臆病になるもの。ほとんどの鯉たちは、空が曇っただけで浮き足立つ始末であった。
しかし、ギンの胸は時折鳴る雷鳴よりもときめいた。
「ついに時が来たのか。ついに旅発つ時が!」
ギンの瞳は血の色の満月のように異様に輝いた。
「さあ、雨よ来い! この池をあふれ返させるほどに、雨よ!」
彼の背びれや胸ひれは力強くピンと張った。尾にこもる力は満ち溢れ、岩をも打ち砕くことができそうにギンには思えた。
「いよいよ、その時が来たようじゃな!」
シンが我が事のように思いながらやってきた。彼の体も興奮にワナワナと震えていた。
「ああ、シン! 俺はうまく跳べるだろうか。オカに上がれるだろうか。カワにうまくたどりつけるだろうか・・・・・・」
突然、ギンは不安に押しつぶされそうになる。
「心配じゃろ、怖いじゃろ、ギン。だが、先頭を進む者には困難という手荒い歓迎は付き物なのじゃ。その壁を突き破る力がなくて、どうして栄光にたどり着けようか。
ギン! 今さら迷うな、恐れるな! おのれを信じてひたすら跳ぶのじゃ!」
シンの叱咤に応じるかのように雷鳴は次第に近ずき、恐ろしい響きを轟かせる。池中の水が震え、そのたびに鯉どもは当ても無く狭い池の中を右往左往するのであった。
その混乱に動じることなく、ギンは準備を始めた。体をほぐし、初めは軽く、次第しだいに高く、跳躍をくり返した。
「跳べる、跳べるよ、シン! きっと俺は跳べるぞ!」
今や、ギンは笑っていた。何度も跳躍を繰り返しながらカラカラと不敵な笑いを立てているのだ。
「ギンがついに狂ったぞ・・・!」
その様子に気づいたある一匹は大声で触れ回った。
雨はますます激しく、まるで石ころが叩きつけるように池の面を荒らしている。列風とあいまって、水面が海のように波立っていた。
そんな中、ギンはますます猛々しく哄笑を繰り返して跳ぶ、跳ぶ
跳ぶ!
稲妻は今、絶頂を迎え大地を引き裂きさかんばかりに大音声を
あげている。この古い池の中でこんな嵐は初めてのことであった。
「だいぶ陸にも水がたまって来たぞ! もうちょっとじゃ!」
興奮気味にトノさんが現れた。
「そうか! これは本当に『時』が来たようじゃ!」
シンも高揚して答えた。
「だいぶ水位が高くなったわい・・・・」
呆然としつつ、長老はつぶやいた。
それからまたギンは何度となく跳躍を繰り返した。はた目にから見ても、その姿は次第に美しさを増してゆく。高く、高く、!
雨がこれでもかというように勢いを増して、石垣の向こうから水が怒涛のように流れ込むようになったその時、
「もう充分じゃ、ギン!」
トノさんが叫んだ。
その時、ついにギンは岩を尾で蹴り、角度を変えて陸へと跳躍した。
「おお!」
池の者たちは思わず、声を呑んだ。ついにギンは未知の国へと旅立とうとしたのだ。
しかし、そうは簡単にはいかなかった。ギンの体はみごと陸の岩に乗ったが、それは三分の一ほどで、固い岩に頭をしたたかにはねつけられ、ギンは池の中に落下した。
「ああー・・・・・」
なぜかしら、池の者たちの口からため息がもれた。
ギンはグルグルとしばらく悔しそうに池を巡った。三回ほど周ったあと、再び彼は加速をつけて、定まった地点から跳躍を試みた。力強い、この池のだれもがした事のない跳躍である。誰もが惚れ惚れとして見とれたほどである。
しかし、二度目の試みも高い壁にはばまれて、彼はまた水中に没した。今や、池中の者たちがギンの周りに集まっていた。そして、恐ろしい嵐のことすら、忘れるほどにその行動に注目していたのである。
「いよいよ旅立つのじゃな………」
いつの間にか、長老がシンの脇に来ていた。
「新しい時代が始まるのじゃろうか、シンよ。」
シンは、言葉が出ずにただ微笑むだけであった。
ギンの旅立ちは、しかし容易ではなかった。五回、十回と彼の挑戦は続いたが、ことごとく失敗した。今や彼の体は傷だらけとなった。厚いうろこは剥がれて散った。次第に跳躍は低くなり目に見えて疲労の色が濃くなっていく。十四回目に失敗した後、彼はしばらく息をついだ。もの思わしそうに、ゆっくりとゆっくりと池を巡った。他の者たちも無言であった。だが、今、ギンの邪魔をしようという者は誰もいなかった。彼の本当の目的はよくは分からない。しかし、これまでのギンの歴史を振り返りながら今日を迎えてみると、なんとも言えないものが皆の者の心を惹きつけていたのである。
しばらくの休息の後、ギンの不屈の挑戦が再開した。雨はいよいよ激しく水面を叩く。
激しい稲妻が閃いた。池のすぐ真上で鳴ったかと思われるようなすさまじい雷鳴であった。池中の者がいっせいに身をすくめた。だがギンはその雷を合図のように高く高く舞い上がったのである。
「ミン! 力をくれ!」
ギンは何度も叫んでいた。
やはり一度では岸に上がれない。苦しい戦いがまた続いた。
数度目の跳躍の際に、また稲妻が閃いた。そして、その時皆が息を呑んだのである。
「銀のうろこだ。伝説の銀の鯉だ!」
幾度も幾度も岩に叩きつけられ、傷ついて、うろこが剥がれながらも跳んでいるうちにギンの体表は磨かれ削られ、今はまさに稲光の中で銀色に輝いているのだ。ついに奇跡が起こる、伝説が眼前で実現する瞬間なのだ。
「長老・…」
シンが声を掛けようとして声を呑んでしまった。長老は感銘に打たれて涙を流していた。しかしそれは彼だけでない、シンも、そして殿さんも同じように泣いていたのである。
その時、若い一匹が息せき切って長老のもとにとんできた。
「長老! たった今デンが・…」
「なに? デンが・…?」
「デンが息を引き取りました。」
36
雷鳴はいっそう激しくなり、もはやこの世の終わりかとも思われた。おかから流れ込む水は滝のようだ。
何度跳んでも、はねられ蹴られ、満身創痍となったギンだが、しかしその闘志はいささかも失われることはなかった。しばらく休息のため、再びゆるやかに池を巡っていたが、炎のような瞳の輝きはあたかも稲妻のようである。
そこへふと、あのピチが現れた。大急ぎで尾を揺らしてギンのもとへたどりついた。
「ギン、ギン・・・!」
「おお、ピチか! おれは今日こそ旅立つぞ。おまえもどうか元気で暮らせよ。おれがどこへ行くのか、それは後でシンに尋ねるがいい。もう少し大人になって、そしてこの生活がどうしても合わなくなったならばな。」
「うん、うん分かったよ、ギン! 別れるのは悲しいけれど、でもギンは伝説の鯉で、ぼくらの救世主なんだもの。喜んで見送るよ。
ところでギン、あのデンがたった今死んだ。何も食べず、何も言い残さないまま、弱りきって死んでしまったよ!」
最後の報せを聞いて、ギンの鱗はまるで逆立った。
「何? デンが、あのデンが死んだ!!」
「そうさ、あの憎っくきデンが死んだんだ!」
ギンはしばらく無言であったが、しかしその全身からは何ともいえぬ力がほとばしりでた。その様子にピチは思わず後ずさりして尋ねた。
「ど、どうしたの、ギン・・・」
ピチにすれば憎い仇であるデンの死を、ギンは喜ぶであろうと予測していたので、ずいぶん面食らってしまった。
しかし、ギンは何も答えなかった。ただ、その目にはかすかに涙を保ち、そして体は怒りに震えたっていた。何に対してギンは怒ったか・・・・しかし、それはギンにも確かには分からない感情であった。何か得たいの知れないものへの怒り、そしてミンへの愛惜、さらに、それと同じくらいのデンの死への悲しみ・・・これは何としたことか、理屈に合わぬ感情に半分いらだちながらも、しかしデンの死への涙は止まらなかった。
「ああ、ミンよ! 俺を助けてくれ! お前の近くに連れて行ってくれ! この苦しみから救い出してくれ!・・・・・・」
ギンはおもむろに叫んだ。そして猛然と最後の跳躍に挑んだのである。
それは一瞬の出来事であった。池のすぐ側の杉の木に落雷があったその瞬間、他のものたちが、これまでにない猛烈な稲光に「アッ」と叫んで目をつむった刹那、ギンは跳んだ。そしてついに石垣の上に見事に到達したのであった。
「見よ、シン! ギンがついに!」
長老が叫んだ。
「おお! ギン!」
シンがうなると同時に、池のあちこちから「やった!」「ついに跳んだぞ!」「奇跡だ!」「伝説の鯉だ!」・・・・様々な声があがった。
「ついに、ついにギンはやり遂げたわい、のうシン。」
シンはうむ、うむと涙をこらえて頷くばかりであった。
ギンの身は大石と大石の間にようやくもぐり込む形で陸に乗っていた。今や彼の体は全身の尾の部分、五分の一ほどが見えているだけであった。そして、さらに前進しようと力強く尾を打ち振っていた。池のものたちはその様子をほれぼれと眺めていた。・・・・
しばらくは・・・・
異変に気づいたのは、殿さんである。
「おかしい・・・・もしや・・・!」
彼はシンたちのもとを離れしなやかに泳ぎ、跳び、見る間にギンの側にやってきた。
「どうした、ギン!」
ギンはうつろになりかけた瞳を向けて、
「動けない、前進できないのだ・・・」
みると彼の体は石と石の間に強くはまり込み、締め付けられてしまっていた。
「ああ、この世には神はおらんのか!」
殿さんは、悔し涙を浮かべて歯軋りしてうめいた。
「さあ、ギン、力を貸すぞ。大きく体をうねらせるんじゃ。!」
ギンは言葉に励まされ、また激しく尾を振り続けた。しかし二つの岩はびくともしない。それは、逆らっても逆らっても変わりようのない運命を暗示しているようであった。
「ああ、今日ほど、この老いぼれガエルの身が恨めしい日はないわい! いくら押しても蚊ほどの力もでぬわ!」
殿さんはあふれる涙をぬぐわずに叫んだ。
池の者たちは、もはや声もなかった。ただひたすら見守っていた。
やがて、嵐は去っていった。夜も明けかけて東の稜線に曙光がさしてきた。
ギンの尾の動きは目に見えて弱まっていく。今や、時折ビクリ、ビクリと痙攣するようにはためくばかりである。
そして、
すっかり空が明るく、青々とする頃には、
ギンの動きは、
止まった。
37
一匹、また一匹と無言のまま、疲れきった顔で鯉たちは去っていった。その後ろ姿には何ともいえぬ落胆と絶望が漂っていた。
ああ、みんなギンの行動にひそかに夢を託していたのだ。この世界以外の別の場所へ、仲間の一匹がたどり着けるかもしれない。それは未来を切り開かれる瞬間なのだ、と・・・・・・・
それでもあきらめきれぬ者は、これまでの長い間のドラマを振り返りながらまだギンを見守っていた。
日が高くなるにつれ、動かぬギンの尾にハエが寄ってきた。それでもギンは動かない。やがて一匹のハエが五匹となった。それでもギンは動かない。さらに十匹、二十匹とハエどもは増える一方である。あれほど力強く、美しかったギンの身がハエどもの慰み者とされている。
「シン、わしには耐えられぬ。とても見るに耐えぬわい!」
長老はあたりをはばからず泣いた。
「長老、それはわしとて同じ事。ああ、わしのせいで、わしが『河』のこと
を話したばっかりに、きらめくような若い命が三つも失われた。もう決して言うまい。話すまいぞ。・・・・・!」
シンは歯を食いしばりながら言った。長老はうなづきながら、
「だが、最期を見届けるのがわしらの務めじゃ。きっと、殿さんが心をこめて最期をみとってくれたことじゃろう。きっとギンは安らかにミンの元にたどり着いたことじゃろう。
やつの魂は今ごろは大海を目指していることじゃろう! のう、シン。そうではあるまいか。」
シンは涙を流し、ただ無言で頷いた。何度も何度も頷いた。
その時、ばらばらと聞きなれた音が一面に響いた。
毎朝の「お恵み」の時間であった。大きな影と小さな影が一つずつほとりに立っていた。
「また、平穏な日々が続くのじゃのう・・・・」
シンがそう呟いたとき、突然ギンの体が宙に浮かんだ。
おお、と二人が見上げるとヒトの影がギンの体を抱き上げていた。その脇で小さな影のすすり上げる声が微かに聞こえてきた。
「大丈夫じゃ、きっとカミさま達が丁寧に葬ってくれるじゃろう。」
シンはそう言って彼らの姿を見送った。
何もかも消えた。後は抜けるような青空があるだけであった。夕べの嵐がうそのようである。嵐のようなギンの物語もまた夢であったような気がするさわやかな朝であった。
やがて、昼近くになって、シンと長老も疲れ果てて自分の寝床へと無言で戻っていったのであった。
すべての物語は終わったのであった。
だが、そうであろうか・・・・?
チャプン・・・・・・・チャプン・・・・・・・・・
まるで皆の心を引き戻すように、小さな小さな音が遠くの方から聞こえてくる。
「おお! なんということ!」
真っ先にそれに気づいたのは、殿さんであった。彼はさっきまでギンのために祈りの挽歌をしみじみと歌いつづけていたのである。
彼は池の方から聞こえてくる懐かしい響きを耳にした。心惹かれて池のほとりにやってきて、彼の大きな瞳に思わず喜びの涙があふれてきた。
その小さな音の正体とは、ピチであった。、そして同じくらいの年の若い幾匹かが、かつての幼いギンと同じように無心に跳ねている水音であった。
チャプン、チャプン
ギンに比べればあまりに情けない跳躍であったが、それでも彼らの顔には希望があふれている。
彼らにとってはギンの跳躍は決して失敗ではなかったのだ。ちゃんと池から飛び出すことができることをギンは証明してくれたのだ。
ギンの夢は、しっかりと後へ続くものたちに引き継がれたのである。今朝の青空は彼らのものであった。
了
1稿 2000年11月12日22時15分
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